The Last Detail

旅と治療の記録。

大井川鐡道 Part.3 (井川線編)

 

列車は奥大井湖上駅という、ダム湖に浮かぶ小島にある小さな駅などを通り過ぎていく。いよいよ停車駅は山間の秘境駅ばかりだ。

 

そのうち印象深い駅だったのが尾盛駅。終着の井川駅から2つ手前の駅。

 

車内放送によれば、尾盛駅は鉄道以外にアクセスする術はないらしい。かつてはダム工事関係者が200人ほど住む集落があり、小学校もあって常駐する医師もいたそうだ。

駅小屋の後方に広がる石垣がかつての巨大な集落を偲ばせる。

 

現在の駅小屋は元々は保線用倉庫として封鎖されていたが、約10年前に熊が出没してからは避難場所を兼ねて待合室として乗客も利用できるようになったらしい。

 

途中下車しようかと思ったが、ホームに鹿が二頭いたのでやめた。

 

 

 

 

 

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大井川鐵道 Part.2(井川線編)

 

大井川はかつて豊富な水量を誇っていたが、南アルプスにおける新幹線建設や東名•新東名高速のトンネル建設により湧水が出水し、川の水量が減ってしまい、今や大井川下流の水量は風前の灯となっている。

 

 

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このように、下流域は砂利だらけで、川が中央を細々と流れているだけ。この広大な川幅は数百年前の大井川の豊富な水量を物語っている。

 

しかし、意外なことに、大井川の水量が豊富だった江戸時代、幕府はこの大井川における舟運を認めなかった。徳川幕府による「船を通すな」というお達しである。

 

当時、発展し続ける江戸では大量の木材需要があった。その木材の多くを、幕府は大井川上流の南アルプス大自然に求めた。

大井川上流で森林を伐採し、伐採した木材を大井川に浮かべてそのまま下流へ流してしまう「川狩り」が行われ、川幅の狭い上流では木材を川幅一杯に溢れんばかりに流したといわれる。川狩りの材木だらけで船が通るのは危険すぎたのだろう。

当時伐採された材木は、江戸城本丸だけではなく上野寛永寺にも使用されたらしい。

 

 

明治になると、日露戦争を契機に日英同盟が締結されイギリスの機械技術が輸入され、大井川上流では水力発電が行われるなど、大井川流域の開発が始まる。森林鉄道による材木輸送が計画されていくのだ。

 

昭和初期には計画が実現して森林鉄道としては全国最大規模を誇った千頭森林鉄道が開業し、伐採された材木や発電所やダム建設の為の資材輸送が始まる。

 

千頭駅を拠点に、そこから上流に向けて何本もの森林鉄道が建設され、その線路はさらに枝分かれし、南アルプスの奥地を目指し続けた。

 

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「その経営規模は極めて大きく、昭和44年度の予算規模は約11億5千万円と全国350署中の一位を占め、日本における表街道である東海道筋にそのようなマンモス署が存在することは特異なことといえる。」

 

「地形は早壮年期~満壮年期で浸食作用がはげしく、起伏量が著しく大きい。そのため崩壊の規模が大きく、河川の谷壁部は急斜をなす。傾斜は河川沿い部分は40°以上、中腹の部分は30°~40°、山頂近くは10°~30°となる。標高は、300m~2591mとその差が著しい。」

 

昭和46年版「千頭営林署管内概要」

 

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1935年に千頭 - 大井川発電所を結ぶ大井川専用軌道が開通。

 

井川林道が開通し、昭和33年を最後に川狩りは行われなくなった。道路整備の発展により、輸送手段はトラックに代わり、森林鉄道は役目を終えた。千頭森林鉄道は昭和44年に全廃している。

 

しかしながら大井川上流のダムや発電施設を支える為、中部電力所有の森林鉄道は今も残されている。この地域に唯一生き残った森林鉄道。それが、この日に乗車した大井川鉄道井川線である。

 

 

前置きが長くなった。前回の記事の続きを書いていこう。

隣のホームが「井川線」である。

レール幅は通常の在来線と変わらないが、列車は戦前の小さなサイズの素掘りのトンネルを抜けていくので、機関車も客車もかなり小型。

 

ディーゼル機関車が後押ししていく。

客車内は狭い。

自動改札なんてものはない。改札で駅員が検札するか、車内で車掌が検札する。

 

あと、駅に到着しても自動扉ではないので、自分で鍵を開けて横扉を開けなければならない。開けっ放しで発車しないように、発車の都度、車掌が先頭車から後尾車まで全力疾走で戸閉めを確認していく。車掌は汗だくである。

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大井川鐡道 part.1

「なぜいまさら大井川鉄道?」

鉄道好きな人ならそう思うだろう。

私鉄ローカル線においてトップに君臨するような路線だし、「関東に住んでいて未だに乗ったことないのか?」と。

 

なんとなくね、乗りたくなかったんですよ。

大井川鉄道蒸気機関車が現役で走っているので、鉄道マニアだけではなく家族連れにも大人気なんだけど、この鉄道マニアとファミリーの大集団がマジで嫌なのよ。

 

どこへ旅に出るにも、人が多いところには絶対に行きたくない。

ディズニーランドなんて行ったら卒倒するし、コミケなんて絶対に気持ち悪くなる。

性格がスキゾイド障害に近いところがあるので、精神衛生的に無理なんだよね。

 

 

今の大井川鉄道(2022/04現在)は、コロナ禍ということもありSLもELも走っていない。要するに、一眼レフを持って群れてる鉄道マニアもいないし、ギャーギャーうるさい家族連れもいない。最高じゃないか。大井川の大自然を孤独に列車で旅ができる。

 

残念なことに東京のコロナ感染者も低下し、アメリカではマスク着用を義務づける州が議会の手で消し去られた。

 

駅前の繁華街がキャバ嬢と泥酔した会社員で溢れ、連休の田舎に大量の東京ナンバーの車が押し寄せる悪夢の日々が再開されようとしているのだ。

 

「このタイミングで行くしかない」と思った。

 

 

 

4月某日早朝、俺は新東名の静岡SAで朝を迎えた。

新東名が好きだ。俺は新東名を愛している。免許を取って車を買い、初めて自動車で大きな旅を計画した時、当時開業直後の新東名に乗った。

 

高校の友人達と決行した旅は壮大で無謀なもので、「日帰りで滋賀と京都に行き、アニメの聖地を訪れてそのまま帰ってくる」というものだった。

(結果、運転を交代しながら28時間で帰還)

 

設計速度140km/hという画期的な高速道路である新東名が開通したからこそできた旅だった。

当時はまだ御殿場ー浜松間の開業半年後で、道路はピカピカだし、IC合流のLED照明も画期的だったし、SAは巨大で娯楽施設も沢山ついていて感動したのを覚えている。

 

アニメ好きなら誰でも知っている場所

今も伝説として語り継がれるこの過去の旅については、いつか紹介しようと思う。

 

 

 

さて、前回の北海道の旅が終わってまもなく、予定通り抗がん剤の治療が始まった。

当初から3、4か月の予定だったのだが、身体の負担も大きいということで明後日の投与で一旦終了ということになった。

 

骨髄抑制の影響でだいぶ貧血気味だし、この記事で初公表するが腎臓の近くの静脈に血栓が見つかり、服用薬で改善が見られたので入院は見送りになったのだが、血がサラサラになる薬を飲んでいるので、傷ができると骨髄抑制により白血病等が減少しているので治りにくい上、血がサラサラで水っぽいので多量に出血しやすい。貧血は身体も疲れやすくなるし困っている。

 

 

まあ、そんなことはどうでもいい。島田金谷ICで久々の新東名を下りて新金谷駅に車を駐めた。料金は一日千円。

この駅から列車に乗り、大井川を列車で北上していくのだ。

 

島式ホーム。

 

いいよな。

早朝の無人のホーム。

塗装の剥げた旧型客車。

風情しかない。

 

 

 

鉄道会社は困るのだろうが、俺はやはり閑散とした駅のホーム、自分しか乗客のいない列車が好きだ。

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抗がん剤初投与 Part.2

 

~DAY10 2/12~

朝起きたら平熱。

人生チョロイので出社。

終日、軽度の頭痛。

 

~DAY11 2/13~

安息日。猛烈な頭痛が終日。右脚も痛い。

 

~DAY12 2/14~

頭痛が和らぐもやはり痛い。

熱はない。投与14日後から脱毛が始まると言われていたので、脱毛の予兆なのかと疑い始める。職場は定休日。

 

~DAY13 2/15,DAY14 2/16~

出社。頭痛がなくなる。

 

~DAY15 2/17~

朝起きたら枕が毛だらけ。

退社後、散髪。

小学生以来の髪の短さ。

 

~DAY16 2/18~

脱毛が加速し始める。ニット帽着用で仕事。

 

とりあえず、こんな感じです。

備忘録として記録を残してみたものの、医師の予告通り投与14日後に脱毛が始まったのは驚いた。

一時期は発熱し焦ったものの、現在は特に何もなく進行している。

もはや俺の関心は、愛するSKE48のるーちゃん(井上瑠夏)の初グラビア。

 

BUBKAは秒速で予約注文した。ポストカードGET。

推しの坂本真凛も早くグラビアやって欲しい。。

今回、初選抜入りしたので、ご祝儀グラビアとかないのだろうか??

本人が露出強い衣装を避けているような傾向があるから、当面はないのかもしれない。まあ、そんな生真面目なところが好きなのだが。。

初めての抗がん剤投与から一週間の経過記録(長文)

この病気(類上皮肉腫)を告知された当初、医師から

「類上皮肉腫には適合する抗がん剤がない」

「なので再発の都度、外科手術で腫瘍を切除していくしかない」

と聞かされていた。

抗がん剤が無いというのは不安な一方で、24時間テレビで見かけるような、髪の毛が全部なくなり全身のいたるところに管を通されて嘔吐を繰り返し食べることもできず四六時中ベッドでもがき苦しむような、そんな苦痛を味わう必要はないのかとホッとした気持ちもあった。

 

しかし、昨秋に左肺や背骨など、全身に転移しステージⅣを告知され、もはや外科手術もできなくなり、抗がん剤治療を考えざるを得なくなった。

 

とはいっても類上皮肉腫には有効な抗がん剤が無いため、どの抗がん剤を選ぶのかな?と不安であった。

 

結論からいうとドキソルビシン(アドリアマイシン)の単剤投与。

医師の説明とは別に、自分でも色々と調べてみたのだが、ドキソルビシンは肉腫に対する抗がん剤として一般的に使われているらしい。

 

ドキソルビシンを投与しても癌を寛解させることはできないことは理解している。

しかし、抗がん剤の担当医師に、「完全な根治は目指せないが、延命治療としては期待できる。少しでも癌の進行を遅らせる為に抗がん剤を使ってはどうか?」と言われ、い色々と考えたのだが、やらないよりはマシだろうと思い先月末に抗がん剤の投与に同意した。

 

2/3が初の投与日だった。節分である。

午前中に病院へ行き、心電図の撮影などを行い、看護師さんからATC治療(通院での抗がん剤治療)の一日の流れについて簡単な説明を受けた。

主治医に呼び出され、健康状態に問題はなく、このまま抗がん剤を投与できるが、本当に投与してよいかの最終的な同意を求められ同意した。

 

この時に、「抗がん剤を投与すると精子にもダメージが与えられる為、精子バンクなどに精子の保存はしなくて大丈夫?」と聞かれただのだが、

「お前、それ今言う事か????」

と内心思いながら、「いやー、あまり興味ないので大丈夫です。。。」と受け流させて頂いた。まず相手がいないしな。来世はハムスター並みに交尾して子供沢山産みたい。

 

「薬剤師から説明を受けてください」と言われ、担当の薬剤師と合流。

「久しぶりだね~」と言われたので、「誰ですか?」と聞いたら、入院する度に病室まで来てくださり薬について説明してくれる薬剤師さんだった。看護師とか薬剤師とかリハビリ担当の人とか、登場人物が多い割りに会うのが年数回だから顔と名前忘れちゃうんだよね。申し訳ない。

で、「副作用~?ああ、大丈夫大丈夫~。吐き気止め沢山出しとくから」と言われ、「そうですか(ほんとかよ)」と思いつつお別れ。

看護師さんと投与後の生活の仕方や副作用について相談する時間を経たあと、午後1時に投与が始まった。

 

最初に吐き気止めの薬剤、次にドキソルビシン、最後に生理食塩水といった順番で、30分ほどかけて点滴で投与した。

 

投与直後は身体に違和感もなく、ただただ気疲れしてしまい早く帰りたい気持ちしかなった。

がん研有明病院の前にある有明ガーデンは、イオンカードで買い物すると金額に関わらず駐車場が6時間無料になるので、恵方巻を買って帰宅。

 

恵方巻、色々な魚をごっちゃ混ぜにして食べる訳だが、そこに醤油をつけて食うと、色んな味が合わさって何を食べているのか訳がわからなくなる。あまり美味しくなかった。来年は買わない。

 

帰宅して夜8時頃に最初の「波」があった。

軽い吐き気というか、頭痛というか。

ここからは日数ごとの副作用の記録。

 

~DAY2(投与翌日) 2/4~

朝、少しだるい感じがあったが特に何もない。

仕事も行こうと思えば行けたが、初めてなので家で安静にしていた。

食事はあまり進まないが食べれる。

Netflixのクラウンが面白すぎる。

シーズン3を観終えた。

 

~DAY3  2/5~

誕生日おめでとう俺。

妹から手紙が届く。

起床、即吐き気、頭痛、ベッドから起き上がりたくないダルさ。

一日中ベッドから出なかった。

食事をとれない。

味覚はあるが、食べると胃がむかむかする。ほとんど食べられない。

Netflixを観る気にもなれない。

寝すぎて、夜はあまり眠れず、寝落ちと覚醒を繰り返す。

夜中にお腹が空いて蕎麦を茹でて食べた。

 

~DAY4  2/6~

起床、やんわりとした吐き気。頭痛は少し楽になる。

クラウンをシーズン4まで観終えた。

食事は通らないが、パスタを茹でてナポリタンを作った。

抗がん剤投与後は麺類が食べやすい」ということを確信。

蕎麦なら麵つゆを濃くすればいいし、味覚が変化しても味を簡単に濃くできる。

 

~DAY5  2/7~

回復。会社は定休日なので、家でダラダラしていた。

食欲は完全には戻らないが、戻り始めた。

食事の量は投与前の半分しか食べられない。

胃がおかしい。

 

~DAY6  2/8~

職場に復帰。

先輩が「あれ?休みじゃなかった?」と心配してくださっていた。

体調は問題ない。

 

~DAY7  2/9~

仕事。夕方頃に体調がおかしくなり、深夜に体温を計ったら39度を超えていた。

 

~DAY8  2/10~

この日は元々、職場にお休みを頂いていて、病院で副作用の経過について医師を話し合う予定の日だったのだが、計画変更。

病院に電話して、がん研のスクリーニング外来でPCR検査を行い、陰性を確認した後に採血して主治医と話し合い。

当然、「高熱の原因は何か」という話になる。

 

抗がん剤を投与すると骨髄抑制により白血球が減少し、それに伴い発熱することはあるらしいのだが、採血の結果を見るに白血球は正常値。抗がん剤の投与から10日~14日間の内に白血球が減少して、稀に発熱などの症状を起こすのが普通で、投与1週間で39度の発熱は普通はないらしい。

原因は断定できないのだが、血液中のCRPの値が8.0(正常値は0.14未満)

 

CRPの意味は↓リンクで。

kango.career-tasu.jp

 

昨夏に入院した時は18という数字が出て1か月近く入院して大変だったのだが、抗がん剤治療により免疫力が低下したことで、肉腫原発の右大腿内の細菌感染が再発している可能性があるとのことだった。

発熱の原因は断定できないが、恐らくこれなのだろう。

仕方がない。

抗がん剤の主治医とは別に、整形外科の担当の主治医とも話し合ったのだが、医師も心配していて、日曜日になっても熱が引かなければ再入院と言われる。絶望的だ。仕事がしたい。

入院に備えてMRSAの検査も行った。結果が出るまで数日かかるらしい。

MRSA|感染症Q&A|感染症の基礎知識|福祉ナビ|サラヤ株式会社 企業法人向け

 

自分は2020初頭の初入院でMRSAの保菌者になっているので、入院時は個室に隔離されていた。この検査で陰性が認められれば4人部屋に戻るかもしれない。嬉しいような悲しいような。。。

 

抗生剤と解熱剤を受け取り帰宅。

「白血球が減少する」→「貧血になる」→「鉄分を摂れ!」ということで、鶏レバーを玉ねぎと一緒に煮込み貪り食う。ジャパンミートで800g350円で買った。安いし健康的だし美味しい。食欲は完全に戻った。

 

~DAY 9  2/11~

明け方4時頃目が覚めて体温を測ったら36.2°。

「人生チョロイわww」と安心して再び眠りにつき、起きて体温計ったら37.7°。

「人生甘くないわ.....」と思いながら職場に電話して「休ませてください」と昨日の経過なども報告してお休みを貰う。

「雪だから休んだ」とかズル休みに思われてそうだが、こちらはそれどころではない。

日曜までに熱をどうにかしないと入院するハメになってしまう。。

 

数日経ったらまた更新します。

抗がん剤治療に向けて

昨年の11月に撮影したPET-CTで、肉腫が全身に転移していることが発覚し、ステージⅣ(末期癌)を告知された。

転移が確認されたのは肺、背骨。左脚や背中にも点々と転移と思しき影が見られたが確定はできなかった。

本来、軟部肉腫に対する治療は腫瘍と考えられる部位を全て外科手術により切除して再発を防ぎながら寛解を目指すのだが、多発転移が認められた以上、全てを切除することは不可能となった。

今後外科手術をするのであれば、痛みが酷く日常生活に影響を及ぼすような症状の場合にのみ当該腫瘍を切除する方向となる。要するに、寛解ではなく痛みを切除することでQOLを維持することしか期待できないということ。

 

しかしながらどうにかして、これ以上の転移や腫瘍の浸潤は防がなければならないので、抗がん剤治療を始めようかということになったのが昨年の11月の話。

 

医師との最初の話し合いでは12月から抗がん剤治療を開始するかという話になったのだが、背骨の腫瘍は既に痛みを感じるほどの大きさ(2cmほど)となっていた。

抗がん剤治療を始めてしまうと骨髄にダメージが出てしまい白血球等が減少するため、外科手術や放射線治療ができなくなる。そのため、抗がん剤治療を始める前に、背骨の腫瘍に放射線を照射して痛みを和らげ、腫瘍を弱らせることを優先することにした。

 

12月に10回の照射をしたのだが、2回目の放射線治療だったので特に緊張もなく終えた。1回目の放射線治療は21年の3月~4月の間に行った33回の照射で、66Gyという強めの照射を行った為に皮膚が火傷したような状態になったが、今回は30Gyだったので大した副作用もなく放射線治療を終えた。

 

で、年明けから抗がん剤治療が始まるので年末年始に北海道の鉄道旅を楽しんだ。治療と仕事の間の束の間の休息である。

 

類上皮肉腫には適合する抗がん剤がなく、一時は臨床試験への参加等の話も医師からあったが結局、見合った治験薬も見つからなかったようで、AC治療(アドリアマイシン)による抗がん剤治療を2月から行うこととなった。今週の木曜日に初投与となる。

 

 

明けましておめでとう。正月明けから有明がん研。

1/4から通院ですか?

またまたそんなご冗談を。

年末年始の休暇ぐらい最後までのんびりさせてくださいよ。

 

肉腫(癌)の原発が右脚の膝の辺りなのだが、昨年の夏頃から膝の裏側に潰瘍ができていて全く治らない。塗り薬を塗っても治らない。

さて、現在の私の治療体制は

 

・総合腫瘍科(現在の主治医。抗がん剤担当。めっちゃ親切。説明が丁寧。大好き。)

・整形外科(ステージ3時代の主治医。女医。マイペースな方。)

・頭頸科(放射線担当医師。副作用の説明やリスクの説明がわかりやすい。)

・呼吸器科(転移した肺担当。最近お会いしてない。)

 

となっているのだが、皮膚科の医師を紹介してくれるということで、今日行ってきた。

女性の綺麗な先生でした。ありがとう。

年明けから私の汚い潰瘍見させちゃって申し訳ない。

 

で、診てもらった。

整形の先生の話では「あ~、CTを見る限りその潰瘍が腫瘍の一部だと思うんだけどね~」と言われ、「そうですか(ほんとかよ)」と思っていたわけです。

で、皮膚科の先生に診てもらった。

・おそらく腫瘍ではない。

・だから手術の必要もない。

・おそらく何らかの感染症が原因。

・塗り薬と服用薬で外・内側両面から攻めていく。

 

ということで、年明け早々から手術の展開は免れました。

やったね!

 

で、その後に総合腫瘍の先生のところに言って、潰瘍に関して色々と話した。

 

昨年の年末に初めて麻薬の痛み止めを貰ったんだけど、めっちゃ効くんだよ。

飲めば15分くらいで効果が出始めて一時間は効く。

先生に「麻薬どれくらい使ってますか~?」って聞かれたから

「一日に2、3回くらいです」って答えた。

「一日に何度も麻薬飲んでるより、一錠飲んで12時間効果のある麻薬を朝夕服用して、現行で使ってる即効性の麻薬も併用していきましょう」ということで麻薬が2種類になった。

ロキソニンと併用で使っていく。

薬を避けるより、痛み止めの麻薬を使ってQOLを上げたほうが日常生活が楽ですからって先生に言われたけど、その通りだと思う。

 

ありがとう麻薬。

ありがとう大麻

 

先生にさ、今の仕事について聞かれたのよ。

俺が今悩んでるのが「副作用と仕事」ってところで、自分の闘病によって職場に迷惑をかける訳にはいかない。けれど副作用を恐れて薬を飲まない訳にもいかない。仕事の内容が特殊なので、事故やトラブルは許されない。

先生も私の心の中を何となく察しておられるのか、仕事の詳細や、痛みの影響などについて色々と聞かれた。

健康な人はわからないかも知れないが、こうして色々と気を使ってくださる医師って患者の立場からしたらとても安心できるんだよね。理解して貰える、気にかけて貰える安心感っていうのは患者のメンタルに良い影響与える。

逆に仕事や日常への影響について余り聞かれることもなく、治療や投薬がどんどん進行してしまうのって不安しかない。

 

来週にまた病院行く。抗がん剤治療について進展があると良いな。

新たな臓器に転移する前に抗がん剤治療を始めたい。

その辺りについても、来週、先生と話してみよう。