最後の入院②年始〜
2023年元日
おせち祭り開催!
お昼ご飯↑
夜ご飯↑
1月4日
本人が何か察したのか類上皮肉腫と診断されて以来3年以上ぶりに家族ラインを作り、病状を事細かに送り始めました。
かなり細かく詳細を送ってきたので悪い予感しかしませんでした。
ステロイドの副作用がかなり重いこと、
腹痛は治らない…
この日を境に何か変わっていく気がしていました。それはあっという間に進んでいきました。
1月6日
後腹膜に新たな腫瘍ができており、そこから
出血しているとのこでした。
当面は止血剤を使用してステロイドは副作用が
重いから中止になりました。
抗がん剤が使えなければ緩和ケアを探したり生活保護も必要と聞き辛かった。
今の状態で抗がん剤が使えないことなんて本人が1番理解していただろうし口に出していなかったが治験も1月からだったし言葉が見つからなかった。
兄の携帯で撮ってある病院食はこの日が最後でした。
1月8日
母が親とは思えないとんでもないセリフをLINEに送りそれが兄と母の最後のLINEになりました。
そしてこの後から家族LINEに兄から通知がくることはなくなりました。
アルコール依存の親に何を話しても無駄しかないから話し合うことはないけど私はこのLINEのやり取りは一生許せないと思う。(私が許す許さないなんて親にとってはどうでもいいことなんだけどね)
1月9日
私の携帯に有明癌研究センターから着信。
嫌な予感が当たりまくっていた上に追い討ちをかけられた電話でした。
「1.2日前から食事も食べなくなってしまった。輸血をしないと命が危ないです。1週間くらいかもしれません」
水曜あたりに一度病院来てくださいとのことで
その日は終わりました。
食事を摂らなくなったら危険というのは有名だと思いますが本当にそういうことなんだと思いました。
1月10日
食事もない水だけしか置いていないテーブル。
この日16時前後にまた病院から連絡があり
血液検査の結果が悪い、土日までもつかわからないといわれて急いで病院へ向かう。
主治医が差し入れは何がいいか、
兄に食べたいものはあるかを聞いていて
お寿司とビールだったらしいがビールは却下されてしまった。
旦那が銚子丸で急いでお寿司を買ってきてくれたのでそのまま有明へ。
先生から容態を聞き、腫瘍マーカーが爆増しているとのことでもう打つ手がないと数値を聞かされお腹の内出血が止まらないCTを見せられ、心底ガンは怖いと思ったしついにきたかと思ってしまいました。
ステージ4と診断されてからいつかこの日はくるものだと兄も私も思っていました。
だけどいくつもの大手術を乗り越えて、国家資格を取り旅行に行く兄を見ていると遠い未来だと思っていました。
いつだったか「もうすぐ治療開始して4年になる、1番怖いのは合併症なんだよ。まあ色々出てくるよねここまできたら」と言っていたのを思い出しました。
お腹の中で異常なスピードで癌は増えている。
お腹の中で出血もしていて輸血しても貧血が治らない。
ステロイドをやったから免疫が下がってこうなったのか、クリスマス前から痩せていてその頃の腹痛からもう病魔は襲ってきていたのか専門家ではないしわからないけど悔しかった。
この日兄にもはっきりと助けられない、申し訳ないと主治医が伝えていました。
病室でやっと会えた時、兄は「来てくれて有難う」と嬉しそうに言ってくれました。
お寿司も全部は食べれなかったけれど3貫食べてくれました。
「大好きなものなら食べれると思ったのにごめんね」と言われたので「私がちゃんと全部食べるから大丈夫だよ明日は何が食べたいのー?」なんて会話をしていました。
お寿司を出した時「写真を撮ってほしい、遺影にしたいから」と言われて主治医や私よりやはり本人が1番早く異変に気づいていたんだなと改めて考えました。
1枚目は笑っていなかったので、笑えと伝えて2枚目。(結局これは遺影にならなかった)
今までも何度かコロナでもお見舞いに病室に入れる時は入ってきたけどこんなに弱っている兄を見たのは初めてでした。
この日兄と私と旦那と子どもの4人でたくさん話して帰宅しました。
次の日からは泊まりこみで母と叔母と順番で病室に行きました。
主治医の見解通り、半日ごとに容態が変わっていくように見えました。
1月10日のこの面会が兄や私にとって幸せな家族の時間だったと思います。
この日以降はどんどん呼吸も浅くなり、夜中に変なことを言ったり治療をやめたいと言ったり…しんどいつらいなんて言葉じゃ言い表せない苦痛の時間でした。
1月12日の夜、もう起きないかもしれないけど鎮静剤を打つかと看護師とのやりとりで呼吸も苦しいはずなのにしっかりと本人が話を聞き希望したので鎮静剤を使用することになりました。
朝になってようやく効いてきたのか、静かに眠っていました。
そしてお昼前に眠るように息を引き取りました。
3年7ヶ月、兄はとても頑張りました。
病気になる前から家族に振り回され、しなくてもいい苦労を兄妹でしてきました。
類上皮肉腫と宣告されてからも兄は向上心があり最後まで生きることを諦めませんでした。
年末の青森に行けなくても夏に北海道行ければそれでいーやなんて話していたのにそれも叶いませんでした。
コツコツと勉強する努力を忘れず、病気のこともお医者さんのように流暢に説明できるくらいの知識や言い回しを知っていました。
癌になってからも教習所の教員として仕事にも熱心でした。癌になって休みがちな兄をよく思わない上司もいましたがそれでも兄は働いていました。
どんな困難でも自暴自棄にならずに最後まで癌と戦った兄を尊敬しています。
火葬したあと兄とはもう会えなくなってしまったけれど体の中の癌細胞も焼かれて無くなったと思うと骨を見たとき癌の野郎ざまあみろと思いました。
30歳という若さで他の人より倍速で走り抜けた人生でした。
良いことも悪いこともたくさんありましたが入院中にテレビで武漢で初めてウイルスが発生してコロナが始まりそうな時のこと、白い巨塔の再放送を兄の病室で見たり車椅子重すぎとか言いながら庭を散歩したり、手術後は足の悪い血を抜く管を足に入れてそれが抜けて大惨事が起きたり、その後歩行器で歩くの応援したり、たくさん思い出があります。
兄の闘病生活を支えてくれた友人達や病院の人たち、有難うございました。
類上皮肉腫や希少癌に効く抗がん剤が近い未来に出来上がりますように。
天国へ行ってもこちらは心配せずに新しい命となって生まれ変わって下さい。今度は健康で長生きで平和な人生を歩んでね。