大井川鐡道 part.1
「なぜいまさら大井川鉄道?」
鉄道好きな人ならそう思うだろう。
私鉄ローカル線においてトップに君臨するような路線だし、「関東に住んでいて未だに乗ったことないのか?」と。
なんとなくね、乗りたくなかったんですよ。
大井川鉄道は蒸気機関車が現役で走っているので、鉄道マニアだけではなく家族連れにも大人気なんだけど、この鉄道マニアとファミリーの大集団がマジで嫌なのよ。
どこへ旅に出るにも、人が多いところには絶対に行きたくない。
ディズニーランドなんて行ったら卒倒するし、コミケなんて絶対に気持ち悪くなる。
性格がスキゾイド障害に近いところがあるので、精神衛生的に無理なんだよね。
今の大井川鉄道(2022/04現在)は、コロナ禍ということもありSLもELも走っていない。要するに、一眼レフを持って群れてる鉄道マニアもいないし、ギャーギャーうるさい家族連れもいない。最高じゃないか。大井川の大自然を孤独に列車で旅ができる。
残念なことに東京のコロナ感染者も低下し、アメリカではマスク着用を義務づける州が議会の手で消し去られた。
駅前の繁華街がキャバ嬢と泥酔した会社員で溢れ、連休の田舎に大量の東京ナンバーの車が押し寄せる悪夢の日々が再開されようとしているのだ。
「このタイミングで行くしかない」と思った。
4月某日早朝、俺は新東名の静岡SAで朝を迎えた。
新東名が好きだ。俺は新東名を愛している。免許を取って車を買い、初めて自動車で大きな旅を計画した時、当時開業直後の新東名に乗った。
高校の友人達と決行した旅は壮大で無謀なもので、「日帰りで滋賀と京都に行き、アニメの聖地を訪れてそのまま帰ってくる」というものだった。
(結果、運転を交代しながら28時間で帰還)
設計速度140km/hという画期的な高速道路である新東名が開通したからこそできた旅だった。
当時はまだ御殿場ー浜松間の開業半年後で、道路はピカピカだし、IC合流のLED照明も画期的だったし、SAは巨大で娯楽施設も沢山ついていて感動したのを覚えている。
今も伝説として語り継がれるこの過去の旅については、いつか紹介しようと思う。
さて、前回の北海道の旅が終わってまもなく、予定通り抗がん剤の治療が始まった。
当初から3、4か月の予定だったのだが、身体の負担も大きいということで明後日の投与で一旦終了ということになった。
骨髄抑制の影響でだいぶ貧血気味だし、この記事で初公表するが腎臓の近くの静脈に血栓が見つかり、服用薬で改善が見られたので入院は見送りになったのだが、血がサラサラになる薬を飲んでいるので、傷ができると骨髄抑制により白血病等が減少しているので治りにくい上、血がサラサラで水っぽいので多量に出血しやすい。貧血は身体も疲れやすくなるし困っている。
まあ、そんなことはどうでもいい。島田金谷ICで久々の新東名を下りて新金谷駅に車を駐めた。料金は一日千円。
この駅から列車に乗り、大井川を列車で北上していくのだ。
いいよな。
早朝の無人のホーム。
塗装の剥げた旧型客車。
風情しかない。
鉄道会社は困るのだろうが、俺はやはり閑散とした駅のホーム、自分しか乗客のいない列車が好きだ。
続きを読む抗がん剤初投与 Part.2
~DAY10 2/12~
朝起きたら平熱。
人生チョロイので出社。
終日、軽度の頭痛。
~DAY11 2/13~
安息日。猛烈な頭痛が終日。右脚も痛い。
~DAY12 2/14~
頭痛が和らぐもやはり痛い。
熱はない。投与14日後から脱毛が始まると言われていたので、脱毛の予兆なのかと疑い始める。職場は定休日。
~DAY13 2/15,DAY14 2/16~
出社。頭痛がなくなる。
~DAY15 2/17~
朝起きたら枕が毛だらけ。
退社後、散髪。
小学生以来の髪の短さ。
~DAY16 2/18~
脱毛が加速し始める。ニット帽着用で仕事。
とりあえず、こんな感じです。
備忘録として記録を残してみたものの、医師の予告通り投与14日後に脱毛が始まったのは驚いた。
一時期は発熱し焦ったものの、現在は特に何もなく進行している。
もはや俺の関心は、愛するSKE48のるーちゃん(井上瑠夏)の初グラビア。
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【表紙】
井上瑠夏(#SKE48)
【限定特典】
井上瑠夏 ポストカード1枚付き(2種からランダム1枚)
BUBKA 2022年4月号「SKE48 井上瑠夏ver.」
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BUBKAは秒速で予約注文した。ポストカードGET。
推しの坂本真凛も早くグラビアやって欲しい。。
今回、初選抜入りしたので、ご祝儀グラビアとかないのだろうか??
本人が露出強い衣装を避けているような傾向があるから、当面はないのかもしれない。まあ、そんな生真面目なところが好きなのだが。。
初めての抗がん剤投与から一週間の経過記録(長文)
この病気(類上皮肉腫)を告知された当初、医師から
「類上皮肉腫には適合する抗がん剤がない」
「なので再発の都度、外科手術で腫瘍を切除していくしかない」
と聞かされていた。
抗がん剤が無いというのは不安な一方で、24時間テレビで見かけるような、髪の毛が全部なくなり全身のいたるところに管を通されて嘔吐を繰り返し食べることもできず四六時中ベッドでもがき苦しむような、そんな苦痛を味わう必要はないのかとホッとした気持ちもあった。
しかし、昨秋に左肺や背骨など、全身に転移しステージⅣを告知され、もはや外科手術もできなくなり、抗がん剤治療を考えざるを得なくなった。
とはいっても類上皮肉腫には有効な抗がん剤が無いため、どの抗がん剤を選ぶのかな?と不安であった。
結論からいうとドキソルビシン(アドリアマイシン)の単剤投与。
医師の説明とは別に、自分でも色々と調べてみたのだが、ドキソルビシンは肉腫に対する抗がん剤として一般的に使われているらしい。
ドキソルビシンを投与しても癌を寛解させることはできないことは理解している。
しかし、抗がん剤の担当医師に、「完全な根治は目指せないが、延命治療としては期待できる。少しでも癌の進行を遅らせる為に抗がん剤を使ってはどうか?」と言われ、い色々と考えたのだが、やらないよりはマシだろうと思い先月末に抗がん剤の投与に同意した。
2/3が初の投与日だった。節分である。
午前中に病院へ行き、心電図の撮影などを行い、看護師さんからATC治療(通院での抗がん剤治療)の一日の流れについて簡単な説明を受けた。
主治医に呼び出され、健康状態に問題はなく、このまま抗がん剤を投与できるが、本当に投与してよいかの最終的な同意を求められ同意した。
この時に、「抗がん剤を投与すると精子にもダメージが与えられる為、精子バンクなどに精子の保存はしなくて大丈夫?」と聞かれただのだが、
「お前、それ今言う事か????」
と内心思いながら、「いやー、あまり興味ないので大丈夫です。。。」と受け流させて頂いた。まず相手がいないしな。来世はハムスター並みに交尾して子供沢山産みたい。
「薬剤師から説明を受けてください」と言われ、担当の薬剤師と合流。
「久しぶりだね~」と言われたので、「誰ですか?」と聞いたら、入院する度に病室まで来てくださり薬について説明してくれる薬剤師さんだった。看護師とか薬剤師とかリハビリ担当の人とか、登場人物が多い割りに会うのが年数回だから顔と名前忘れちゃうんだよね。申し訳ない。
で、「副作用~?ああ、大丈夫大丈夫~。吐き気止め沢山出しとくから」と言われ、「そうですか(ほんとかよ)」と思いつつお別れ。
看護師さんと投与後の生活の仕方や副作用について相談する時間を経たあと、午後1時に投与が始まった。
最初に吐き気止めの薬剤、次にドキソルビシン、最後に生理食塩水といった順番で、30分ほどかけて点滴で投与した。
投与直後は身体に違和感もなく、ただただ気疲れしてしまい早く帰りたい気持ちしかなった。
がん研有明病院の前にある有明ガーデンは、イオンカードで買い物すると金額に関わらず駐車場が6時間無料になるので、恵方巻を買って帰宅。
恵方巻、色々な魚をごっちゃ混ぜにして食べる訳だが、そこに醤油をつけて食うと、色んな味が合わさって何を食べているのか訳がわからなくなる。あまり美味しくなかった。来年は買わない。
帰宅して夜8時頃に最初の「波」があった。
軽い吐き気というか、頭痛というか。
ここからは日数ごとの副作用の記録。
~DAY2(投与翌日) 2/4~
朝、少しだるい感じがあったが特に何もない。
仕事も行こうと思えば行けたが、初めてなので家で安静にしていた。
食事はあまり進まないが食べれる。
Netflixのクラウンが面白すぎる。
シーズン3を観終えた。
~DAY3 2/5~
誕生日おめでとう俺。
妹から手紙が届く。
起床、即吐き気、頭痛、ベッドから起き上がりたくないダルさ。
一日中ベッドから出なかった。
食事をとれない。
味覚はあるが、食べると胃がむかむかする。ほとんど食べられない。
Netflixを観る気にもなれない。
寝すぎて、夜はあまり眠れず、寝落ちと覚醒を繰り返す。
夜中にお腹が空いて蕎麦を茹でて食べた。
~DAY4 2/6~
起床、やんわりとした吐き気。頭痛は少し楽になる。
クラウンをシーズン4まで観終えた。
食事は通らないが、パスタを茹でてナポリタンを作った。
「抗がん剤投与後は麺類が食べやすい」ということを確信。
蕎麦なら麵つゆを濃くすればいいし、味覚が変化しても味を簡単に濃くできる。
~DAY5 2/7~
回復。会社は定休日なので、家でダラダラしていた。
食欲は完全には戻らないが、戻り始めた。
食事の量は投与前の半分しか食べられない。
胃がおかしい。
~DAY6 2/8~
職場に復帰。
先輩が「あれ?休みじゃなかった?」と心配してくださっていた。
体調は問題ない。
~DAY7 2/9~
仕事。夕方頃に体調がおかしくなり、深夜に体温を計ったら39度を超えていた。
~DAY8 2/10~
この日は元々、職場にお休みを頂いていて、病院で副作用の経過について医師を話し合う予定の日だったのだが、計画変更。
病院に電話して、がん研のスクリーニング外来でPCR検査を行い、陰性を確認した後に採血して主治医と話し合い。
当然、「高熱の原因は何か」という話になる。
抗がん剤を投与すると骨髄抑制により白血球が減少し、それに伴い発熱することはあるらしいのだが、採血の結果を見るに白血球は正常値。抗がん剤の投与から10日~14日間の内に白血球が減少して、稀に発熱などの症状を起こすのが普通で、投与1週間で39度の発熱は普通はないらしい。
原因は断定できないのだが、血液中のCRPの値が8.0(正常値は0.14未満)
CRPの意味は↓リンクで。
昨夏に入院した時は18という数字が出て1か月近く入院して大変だったのだが、抗がん剤治療により免疫力が低下したことで、肉腫原発の右大腿内の細菌感染が再発している可能性があるとのことだった。
発熱の原因は断定できないが、恐らくこれなのだろう。
仕方がない。
抗がん剤の主治医とは別に、整形外科の担当の主治医とも話し合ったのだが、医師も心配していて、日曜日になっても熱が引かなければ再入院と言われる。絶望的だ。仕事がしたい。
入院に備えてMRSAの検査も行った。結果が出るまで数日かかるらしい。
MRSA|感染症Q&A|感染症の基礎知識|福祉ナビ|サラヤ株式会社 企業法人向け
自分は2020初頭の初入院でMRSAの保菌者になっているので、入院時は個室に隔離されていた。この検査で陰性が認められれば4人部屋に戻るかもしれない。嬉しいような悲しいような。。。
抗生剤と解熱剤を受け取り帰宅。
「白血球が減少する」→「貧血になる」→「鉄分を摂れ!」ということで、鶏レバーを玉ねぎと一緒に煮込み貪り食う。ジャパンミートで800g350円で買った。安いし健康的だし美味しい。食欲は完全に戻った。
~DAY 9 2/11~
明け方4時頃目が覚めて体温を測ったら36.2°。
「人生チョロイわww」と安心して再び眠りにつき、起きて体温計ったら37.7°。
「人生甘くないわ.....」と思いながら職場に電話して「休ませてください」と昨日の経過なども報告してお休みを貰う。
「雪だから休んだ」とかズル休みに思われてそうだが、こちらはそれどころではない。
日曜までに熱をどうにかしないと入院するハメになってしまう。。
数日経ったらまた更新します。
抗がん剤治療に向けて
昨年の11月に撮影したPET-CTで、肉腫が全身に転移していることが発覚し、ステージⅣ(末期癌)を告知された。
転移が確認されたのは肺、背骨。左脚や背中にも点々と転移と思しき影が見られたが確定はできなかった。
本来、軟部肉腫に対する治療は腫瘍と考えられる部位を全て外科手術により切除して再発を防ぎながら寛解を目指すのだが、多発転移が認められた以上、全てを切除することは不可能となった。
今後外科手術をするのであれば、痛みが酷く日常生活に影響を及ぼすような症状の場合にのみ当該腫瘍を切除する方向となる。要するに、寛解ではなく痛みを切除することでQOLを維持することしか期待できないということ。
しかしながらどうにかして、これ以上の転移や腫瘍の浸潤は防がなければならないので、抗がん剤治療を始めようかということになったのが昨年の11月の話。
医師との最初の話し合いでは12月から抗がん剤治療を開始するかという話になったのだが、背骨の腫瘍は既に痛みを感じるほどの大きさ(2cmほど)となっていた。
抗がん剤治療を始めてしまうと骨髄にダメージが出てしまい白血球等が減少するため、外科手術や放射線治療ができなくなる。そのため、抗がん剤治療を始める前に、背骨の腫瘍に放射線を照射して痛みを和らげ、腫瘍を弱らせることを優先することにした。
12月に10回の照射をしたのだが、2回目の放射線治療だったので特に緊張もなく終えた。1回目の放射線治療は21年の3月~4月の間に行った33回の照射で、66Gyという強めの照射を行った為に皮膚が火傷したような状態になったが、今回は30Gyだったので大した副作用もなく放射線治療を終えた。
で、年明けから抗がん剤治療が始まるので年末年始に北海道の鉄道旅を楽しんだ。治療と仕事の間の束の間の休息である。
類上皮肉腫には適合する抗がん剤がなく、一時は臨床試験への参加等の話も医師からあったが結局、見合った治験薬も見つからなかったようで、AC治療(アドリアマイシン)による抗がん剤治療を2月から行うこととなった。今週の木曜日に初投与となる。
明けましておめでとう。正月明けから有明がん研。
1/4から通院ですか?
またまたそんなご冗談を。
年末年始の休暇ぐらい最後までのんびりさせてくださいよ。
肉腫(癌)の原発が右脚の膝の辺りなのだが、昨年の夏頃から膝の裏側に潰瘍ができていて全く治らない。塗り薬を塗っても治らない。
さて、現在の私の治療体制は
・総合腫瘍科(現在の主治医。抗がん剤担当。めっちゃ親切。説明が丁寧。大好き。)
・整形外科(ステージ3時代の主治医。女医。マイペースな方。)
・頭頸科(放射線担当医師。副作用の説明やリスクの説明がわかりやすい。)
・呼吸器科(転移した肺担当。最近お会いしてない。)
となっているのだが、皮膚科の医師を紹介してくれるということで、今日行ってきた。
女性の綺麗な先生でした。ありがとう。
年明けから私の汚い潰瘍見させちゃって申し訳ない。
で、診てもらった。
整形の先生の話では「あ~、CTを見る限りその潰瘍が腫瘍の一部だと思うんだけどね~」と言われ、「そうですか(ほんとかよ)」と思っていたわけです。
で、皮膚科の先生に診てもらった。
・おそらく腫瘍ではない。
・だから手術の必要もない。
・おそらく何らかの感染症が原因。
・塗り薬と服用薬で外・内側両面から攻めていく。
ということで、年明け早々から手術の展開は免れました。
やったね!
で、その後に総合腫瘍の先生のところに言って、潰瘍に関して色々と話した。
昨年の年末に初めて麻薬の痛み止めを貰ったんだけど、めっちゃ効くんだよ。
飲めば15分くらいで効果が出始めて一時間は効く。
先生に「麻薬どれくらい使ってますか~?」って聞かれたから
「一日に2、3回くらいです」って答えた。
「一日に何度も麻薬飲んでるより、一錠飲んで12時間効果のある麻薬を朝夕服用して、現行で使ってる即効性の麻薬も併用していきましょう」ということで麻薬が2種類になった。
ロキソニンと併用で使っていく。
薬を避けるより、痛み止めの麻薬を使ってQOLを上げたほうが日常生活が楽ですからって先生に言われたけど、その通りだと思う。
ありがとう麻薬。
ありがとう大麻。
先生にさ、今の仕事について聞かれたのよ。
俺が今悩んでるのが「副作用と仕事」ってところで、自分の闘病によって職場に迷惑をかける訳にはいかない。けれど副作用を恐れて薬を飲まない訳にもいかない。仕事の内容が特殊なので、事故やトラブルは許されない。
先生も私の心の中を何となく察しておられるのか、仕事の詳細や、痛みの影響などについて色々と聞かれた。
健康な人はわからないかも知れないが、こうして色々と気を使ってくださる医師って患者の立場からしたらとても安心できるんだよね。理解して貰える、気にかけて貰える安心感っていうのは患者のメンタルに良い影響与える。
逆に仕事や日常への影響について余り聞かれることもなく、治療や投薬がどんどん進行してしまうのって不安しかない。
来週にまた病院行く。抗がん剤治療について進展があると良いな。
新たな臓器に転移する前に抗がん剤治療を始めたい。
その辺りについても、来週、先生と話してみよう。
北海道DAY⑦ ~釧路14:16発、帰宅0:45~
旅の最終日がきた。
釧路から千葉県某八千代市の自宅へと帰らなければならない。
釧路を午後2時すぎの列車で発ち、午後20時発のJALで女満別から羽田に帰る。本来は釧路空港を使いたかったのだが、JALマイルの空席が女満別空港しかなかった。
そもそもこの旅は当初から計画していたものではなかった。12月から抗がん剤治療が始まる予定だったのだが、11月下旬に主治医と話し合った結果、諸事情から年明け以降に抗がん剤治療を始めることになった。そこで急遽、年末年始の予定がなくなったので北海道旅行を計画したのが、年末の一か月前。既に多くの便が満席で、たまたま女満別の便に空席が沢山あった。要するに、今回の旅は様々な偶然が生み出した旅であった。不思議な旅の縁もある。
私の病気は類上皮肉腫という希少癌なのだが、適合する抗がん剤が日本国内にはない。肉腫についてはアドリアマイシン(ドキソルビシン)を基本的には投薬するようだが、過去に投薬したデータによればあまり治療効果が見られず、副作用に苦しむ結果に終わるパターンが多かったらしい。そこで抗がん剤の臨床試験に参加する方針を決め、私の病気に適合しそうな抗がん剤の臨床試験が発表されるまで当面は抗がん剤治療を保留することにした。
午前中は何もやることがなかったので、釧路駅前のタイムズのカーシェアで車を借り阿寒湖に行ってみたのだが、大して目ぼしいものもなく、引き返して釧路に帰ってきた。要するに、無駄足のドライブで終わった。
午後1時前に釧路駅に戻ってきて、列車が発車するまでの一時間、お土産屋さんを徘徊したり、待合室でのんびりしていた。千葉県までの長旅が始まるのだ。のんびりしていよう。
で、時間になってホームに行くと、隣のホームに数日前に新得駅で見かけた国鉄色キハが入線していた。
お久しぶりです。これでお会いするのは3回目ですね。不思議なご縁ですね。ストーカーの如く私の旅程通りに後ろをついてきましたね。
行先は網走。この旅のスタート地点へ戻るのだ。
3時間の列車旅。満席だった。網走駅から特急で札幌へ向かう組と女満別空港に向かう組、この2グループが主な客層であろう。
車窓に貼られたルパン三世のステッカーと共に、列車は釧路湿原を抜け、知床を抜け、オホーツク海へ向かっていく。
途中でタンチョウという鶴のような美しい鳥を見た。
どんな鳥か気になる方はGoogle先生に聞いてください。
釧路湿原の辺りでは積雪が少ないように感じられたものの、やはりオホーツク海が近づくにつれて雪の量がどんどん増えていく。
列車は網走駅に入線した。
旅の終わりを意味する。
そう。この改札口から今回の旅は始まったのだ。
思い出の網走駅。
網走から半時計周りで旭川、富良野、帯広、釧路を経由して周回してきたことになる。
一週間の旅。
一週間前と一週間後の網走駅。
何も変わらない網走駅だが、全く違う印象を受けていた。
今回の旅で一番記憶に鮮烈に残った駅。
駅前のホテルに泊まり、駅前のトレン太くんで車を借りた。
それだけの思い出だが、もう既に不思議な愛着がこの駅に沸いてしまっていた。
次に訪れるのはいつなのかわからない。
どうか廃線にならず、廃駅にならず、いつか再び訪れる日まで存続していて欲しい。
北海道は高齢化と比例して急速に衰退している。
今回訪れた場所が次回もそこに存在している確証なんて全くないのだ。
網走駅前に待っていれば空港バスが来るのだが、何となく街を歩きたくて網走バスターミナルまで歩いてみた。
さて、二日ほど前から新千歳空港が雪の影響で発着できずパニックになっていることは知っていた。私は油断していたのだ。
「新千歳は日本海が近いから雪の影響をモロに受けるが、女満別は道東。雪の影響はないだろう」と。
実際、空港の積雪も大したことはなかったし、風もなかった。
何も問題ないと思われたのだが。。。
「566便を見てみよう」
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
なんということでしょう。
遅延しているではありませんか。
使用機材が羽田空港を30分遅れで離陸した為に女満別の着陸が30分遅れる。私が乗る折り返し便も30分遅れる。なるほどね。理解しました。日本各地の遅延が連鎖的に広がり、あらゆる便に遅延が発生している訳だ。安倍政権が悪い。
別にね、30分くらいの遅れなんて気にしないんだよ。
何が問題かって、当初の予定では羽田着陸が22時だったんです。そのまま22時半の津田沼方面の終バスに乗って帰宅する予定だったんです。
コロナの影響で、津田沼方面は23時以降のバスが全部運休になっちゃってるんですよ。
つまり、離陸が30分遅れれば着陸も30分遅れる。するとどうでしょう。津田沼方面の終バスに間に合わないではありませんか。
いや、まだ保険はある。
22時53分発の京急エアポート快特。これに乗れれば、家まで帰れる。。
あら、なんということでしょう。
機内から私の住む八千代市が見えるではありませんか。
あれが国道16号ですか?
なんなら、職場が見えるではありませんか。
落下傘積んでませんか?
落下傘降下すれば帰宅できるのですが。
某ローカル線の五井駅やアクアライン、海ほたるを上空から眺めながら、羽田空港へ無事着陸。
この時、22時30分。
搭乗口を出たのが22時40分。
預け荷物を受け取ったのが22時50分。
君を忘れない。
いつか会えるといいね。
困った俺はGoogle先生に聞いてみた。
先生「リムジンバスで千住大橋駅に向かえ。そこから京成の終電に乗れば帰れるぞ」
その手があったか。
流石Google。
ということでバス乗り場に並んでいたところ、係の人に乗車券を持ってるか聞かれる。
「持ってません」
係員「予約で満席なので、キャンセル待ちということで列から離れていただけますか?」
は?舐めてんのかお前。
Googleさあ、期待させてこれはないやろ。
誰が悪いんだって?
誰も悪くないよ。
飛行機の遅延だって別に機長が悪い訳じゃないよ。
誰も悪くないんだ。
結局、23時17分のモノレールに乗り、東京駅から終電の総武快速で津田沼に行き、そこから久々に乗ったタクシーで0時45分に帰宅。
今は自動車学校の教官の仕事をしているのだが、過去にタクシー会社で3年間働いていたことがあるのでタクシーの運転手さんと話しが弾む。
無線の迎車がああでもねえこうでもねえ話しながら、旅を終えた。
なんだこの旅の終わり方。
北海道の美しい粉雪。氷点下の潮風。凍り付いた海。列車の窓から見える鹿の群れ。
死にかけている私に、大自然の生命力を感じさせてくれた。ありがとう。
まだ訪れていない町もある。稚内、札幌、函館、そして今回の旅で諦めた留萌。
生きていれば、また君と、いつか会うことになるだろう。
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「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」
「さうして、苦しい時なの?」
「何を言つてやがる。ふざけちやいけない。お前にだつて、少しは、わかつてゐる筈たがね。もう、これ以上は言はん。言ふと、
北海道旅DAY⑥ 〜生命の息吹き〜
昨晩はテレビで第九を観て、日本酒を飲んで、そのまま10時には寝てしまった。
あけましておめでとうございます。眠いです。
朝の5時半に自然と目が覚め、ホテルの部屋から日の出の方角を見ると、そこだけ雲がかかってました。笑ってしまった。知床や納沙布岬で朝の氷点下の冷たい海風を浴びながら凍えて初日の出を待っている人達がいるんですよ!!!たくさん!!!見に行かないでよかった!!
※当初の計画では、大晦日は根室で迎えて初日の出を見ようとしていました。
もう一眠りして起きたら6時半すぎ。やばい。
急いでシャワーを浴び、着替えて朝食会場へ。
東横インと違ってプリンスホテルのバイキングは豪華で最高です。
朝食会場から見える朝陽を浴びた釧路の港が美しい。
新年という感じだ。綺麗に晴れてよかった。
今日は花咲線に乗る。花咲線は100周年ということもあって、だいぶ気合いが入っている。
いつものディーゼル車も100周年仕様とちょこっとだけ豪華に。
しかも2輌に増結!(帰りは1輌だった)
ね?ちょっとだけ豪華でしょう?
なんか、テーブル席になってる。背もたれは木。まあ背もたれに関してはね、木だと固いから、従来の薄いクッションマットで良かったと思いますよ。JR北海道の上層部がなぜGOサインを出したのかはわかりませんが。。固い背もたれ、嫌でしょう。しかも冷たいし。デザイン重視で勘違いしちゃったんだろうね。
花咲線で楽しみだったのは、圧倒的な車窓。これにつきる。
快晴の元旦に、約40年前に製造された列車に乗りながら道東の太平洋の海原を眺めるなんて、最高じゃないか。
花咲線はどんなところを走っているのか?
このツイートをご覧いただきたい。
冬の花咲線落石海岸
— ♂茉莉花P・夢空間☆花咲線の会【公式】元祖!花咲線利用促進応援団体 (@otasukematurika) 2022年1月1日
雪の中をカラフル編成がゆっくり通過しました!
変5627Dいつもの列車で観光気分対象列車
根室ゆき今日はキハ40森の恵み増結日!雪原に地球探索鉄道花咲線ラッピングと森の恵みの2両編成
赤と緑のコントラストが素晴らしい!#頑張ろう花咲線 #FMねむろ #pawamoni pic.twitter.com/WVMOfckRqR
なんとこの列車、俺が乗っているのである。
実際のところ、私は車窓からこの撮影者を見ていた。
雪が積もる台地に1人で立っている人がいるもんだから、隣に座っていた乗客グループの若者が「すげえ!あんなとこに人が立ってる」と驚いていた。
花咲線で凄いのは「動物が多く現れる区間なので非常ブレーキをかけることがあります」と注意の車内放送が流れるところだ。実際のところ今日、俺は野生の鹿を20頭くらいみたし、線路のど真ん中に座ってドカないよくわからないデカい鳥も1羽見た。
多くの野生動物が暮らす線区なのだ。ここは人間の街ではない。動物達の聖域の一部を、人間がお借りしている。そういった場所なのだ。動物達が列車を邪魔しているのではなく、列車が動物達の邪魔をしているのだ。
おそらく初日の出を見た人達であろう。釧路方面の改札口は入場待ちの人達が大行列を成していた。帰りが不安だ。
バスに乗り継ぎ、目的地へと向かう。
着いた。
ここが目的地だ。
言葉なんていらない。
日本本土最東端、納沙布岬だ。
40分ほどで折り返しのバスが来る。
乗り過ごしたら命に関わる。めっちゃ寒い。寒いというか痛い。
帰りの釧路方面の列車は案の定、超満員。
しかし俺は「これ幸い」と席取り合戦を争う観光客を放置し、運転席の直後を陣取った。座れないなら絶景が見える場所を陣取って立ってればいいのに。馬鹿なのかな。
※しかし3時間立ってるのは、高齢者には辛いだろう。
前面扉に「ルパン三世」のマークが描かれている。
この車輌、ルパン三世のラッピング車だった。
「なぜルパン?」と思いGoogle先生に聞いてみたところ、ルパン三世の作者モンキーパンチ氏は、この花咲線沿線の出身だそうだ。それを記念して、1輌だけルパン三世仕様車を走らせているらしい。
ラッピング車は数年で元の塗装に戻されてしまうことが多いが、このラッピングは末長く活躍して貰いたいものだ。
私の旅も終わりが見えてきた。
終わりのない旅なんて存在しない。存在してはならない。
それは生命の摂理に反する。
今の旅はいつかの旅。
やがて旅が終わり、そしてまたいつか、新たな旅が始まる。
大自然の生命が輪廻し続けるように...