朝の稚内桟橋駅
稚内はホテルもレンタカー店も少ない。早めに予約しておかないとホテルはすぐに満室になるし、レンタカーは満車になる。今回の旅程は旅の直前まで迷いがあって、結果的にホテルの予約が遅くなってしまい、しっかりとしたホテルに泊まれずに1万円も払って昭和のボロいホテルに泊まるハメになってしまった。エアコンは使い物にならないし、窓がしっかりと閉まらないのも理解できない。雨の日は大クレームだろう。レビューを見てから予約したのだが「古い」という言葉が少なからず目に留まったので覚悟はしていたが、このホテル以外に空室がなかった。とにかく酷いホテルだった。
日本最北端のニッポンレンタカーで車を借りて旧稚内桟橋駅へ訪れた。ホテルが目の前だったので、夜のライトアップされた桟橋を楽しむのもよかったのだが疲れ果てて寝てしまったので桟橋の夜景は撮っていない。動輪や稚泊連絡船の記念オブジェが並んでいる。
かつては稚内桟橋駅が日本最北端の駅であり、この桟橋から稚泊連絡船という稚内と樺太・大泊港を結ぶ船舶が発着していたようだ。昭和20年8月11日にソ連軍が不可侵条約違反となる樺太への侵攻し緊急疎開輸送が実施された。8月23日に樺太全土を占領したソ連軍司令部が島外移動禁止を通達、その晩に最終便「宗谷丸」が脱出し稚内へ無事到着。この便をもって稚泊航路は消滅し、稚内桟橋駅も廃止となった。
※南極観測へ向かった宗谷は旧海軍特務船であり、この宗谷丸とは別。
改札や桟橋へ向かう跨線橋階段の痕跡は見当たらない。線路のあった部分は埋め立てて嵩上げされ、散歩をしている人や観光客がちらほら。
C55 49号機は1945年までは盛岡・青森機関区に、1950年に会津若松に所属していたらしく、戦前に連絡船への接続列車を牽引していたという記載は誤りであると一部マニアから指摘されている。
旅の時間は限られている。旅に訪れた当時に廃止報道が出ていた抜海駅へと車を走らせることにした。