The Last Detail

旅と治療の記録。

留萌本線を訪ねて。

前回

momogon.hatenablog.com

 

午後3時前には美唄ICに入り、車で留萌へ向かった。高速道路は便利で美唄から留萌まで1時間ちょっとで行ける。この利便性に鉄道では勝てない。しかし鉄道旅が好きな自分は本音は列車で向かいたかったが留萌本線は余りにも不便なダイヤ(長時間待たされる乗り継ぎと本数の少なさ)により車で行くことにした。夕方4時頃には留萌に到着。道の駅留萌に車を駐めて、街を散策。

思えば、生まれて初めて見る日本海なのだ。日本海と聞くとどうしても新潟や富山、山陰側の旅をイメージしてしまうが、冷静に考えてみれば北海道の西側の海も日本海である。留萌は港町。北海道の北西に位置する。札幌の北の小樽から海沿いに北上していったところが留萌である。豪雪地帯でありかつてはアクセスが不便な街で鉄道は欠かせない存在で、通勤通学や旅客輸送にのみならず、魚介類の輸送や、かつて存在した留萌炭田等からの石炭輸送の需要もあり明治43年留萌本線が開業した他、昭和5年に留萌鉄道が開業し炭鉱や漁業の繁栄で留萌は栄えた。昭和22年には留萌近辺に留萌本線、羽幌線天塩炭鉱鉄道、留萌鉄道、達布森林鉄道が存在した。

 

日本の地方都市は炭鉱で栄えたが、戦後、安全を軽視した石炭の増産計画により日本各地では次々と炭鉱事故が相次ぐ。

 

昭和38年:三井三池炭鉱炭塵爆発 死者458人

昭和40年:三井山野炭鉱ガス爆発事故 死者237人

昭和58年:北炭夕張新炭鉱ガス突出事故 死者98人

 

戦時中、開戦翌年の昭和17年には、山口県にあった長生炭鉱という海底の真下を掘削した炭鉱で海水流入事故があり183人の坑夫が水没して亡くなり、その内の136人は朝鮮で徴用された朝鮮人であることがわかっており、未だに賠償責任などで日韓問題の一つとなっている。

 

これ以外にも数え切れないほどの炭鉱事故が戦前から発生しており、戦前は特高警察により労働組合を弾圧していた企業も戦後は労働組合に労働環境の改善、安全対策の強化をストライキ等で強く求められた。しかしながら戦前以上の大規模な事故が戦後も相次ぎ、更なる安全対策を求められて経営コストが跳ねがり、更に世界的な石油へのエネルギー転換が追い討ちを駆けて高価な国産石炭は売れなくなり、更に事故で亡くなった坑夫への賠償金の支払いや事故からの復旧費用は会社に致命的なダメージを与えて炭鉱経営は次々と破綻。栄華を誇った北海道内の炭鉱は次々と閉山していき、職を失った坑夫は街を去り、輸送する石炭も人も消え去って鉄道だけでなく、炭鉱街そのものが消滅していくこととなる。

 

留萌では昭和45年までにほぼ全ての炭鉱が閉山し、昭和46年に留萌鉄道も廃止。

現在は留萌本線のみ営業を続けているが、2020年に深川留萌自動車道が全線開通して旭川方面からの高速バスでのアクセスが容易に行えることとなり、豪雪地帯であり冬季に莫大な除雪費用がかかり採算が取れない上に通学客と一部の鉄道マニアを除いて乗客が少なく需要がないと判断された留萌本線は一部区間を残して石狩沼田ー留萌間を2023年に廃止とすることが決まった。2026年には全線廃止となる。

 

 

道の駅 留萌

かつては留萌駅から増毛駅へと線路は伸びていた。
2016年末に留萌ー増毛間は廃止。

 

道の駅に車を駐めて留萌駅へと歩く。鉄道は壊滅的だがバイク乗りや家族連れで道の駅は賑わっていて、駐車場整理の誘導員まで配置されていた。

留萌駅から西側にはかつて増毛駅へと続いていた留萌本線、線路は撤去されたが鉄橋などの痕跡は残されていて廃線跡を散策できる。

 

廃線跡と鉄橋

留萌駅。味がある駅舎。

 

写真に写っている「FMもえる」という地元ラジオ局は駅舎内に局を構え、「街の聴こえる回覧板」と謳って地元関係のニッチな放送をしている。

エフエムもえる76.9MHz│スマートフォンまたはパソコンでラジオを聴く

 

改札口

ホームに佇むキハ54

衰退で巨大な駅は必要なくなり、跨線橋は封鎖されている。

1997年に年間64,157人だった留萌駅の利用客数は、2019年に15,700人に減少。1日平均43人。採算が取れる訳がない。もはやホームが2つも必要ないのだ。

 

駅前には魚市場などがある。

 

車で駅近くの留萌港に行ってみることにした。

この日は天気も良く、釣り人もチラホラと出ていたが街そのものには何もない。

大きな産業を失い、漁業は後継者育成に失敗し、閉鎖的な村社会は他所者を排除してきたのだろう。最近は北海道への移住が流行り標津などの知床側や十勝もそれなりに移住者が流入しているようだが、どうも留萌付近の移住の話は聞かない。街を復活させるには「新しい何か」或いは他所者を受け入れる土壌が必要なのではないだろうか。話が逸れました。

 

黄昏ていた。

今も現役で使用されている昭和初期に建てられた現役の石倉倉庫群とレンタカー。

倉庫。築地市場の場内の競り場で働いていた頃を思い出す。

上2枚の写真にこのような設備が写っているが、恐らく倉庫内に製氷場があり、漁船から水揚げしたニシンのコンテナに氷を散布する為に使用しているのかと思う。

 

日本海沿いの国道を西に向けて走り増毛方面へのドライブもしたかったが時間がない。再び車に乗り、留萌本線沿いを走り古き駅舎を訪ねてみることにした。夕方7時に旭川駅前の店舗へレンタカーを返却せねばならないのだ。時間との戦いが始まった。