三笠鉄道村
「夏の北海道に行ってみたい。」
ふらっと行ってふらっと帰ればいいやと思い、7月某日、夏の北海道を訪れた。
飛行機は左側の窓席を予約することにしている。病院や実家がある東京下町の上空を飛行するから。数年前に羽田の航路が変更され、低空で東京上空を飛行するルートになったので景色がとてもいい。
朝9時半に旭川空港に降り立ち、予約しておいたニッポンレンタカーの担当者が到着ロビーで待っていたので合流し、スバル・インプレッサスポーツに乗り込み道央道へ。
こじんまりしたPAで休憩を取りながら、まずは三笠市へ向かった。
目的地はむか〜~~しから行きたかった三笠鉄道記念館。
※ここからオタク話が永遠と続きます
↑ 動画をYouTubeにアップロードしました。
駐車場に車を駐めて鉄道村に向かうと爆音の汽笛を鳴らしているS304が見えた。
1939年 日本車輌製造製で、観光列車を除き日本で1番遅くまで現役で使用された蒸気機関車。室蘭市の鐡原コークスの工場内の貨車入れ替えに活躍していたらしい。だから「暖房はコークス」とか書かれているのか。コークスが何なのかよくわからないので調べてみたが、wikipediaには「石炭を蒸し焼きにして炭素部分だけを残した燃料(骸炭)」とある。何だかよくわからない。動態保存されているタンク式蒸気機関車を見たのは生まれて初めてで、何だか感動してしまった。こじんまりした君が好き。
タンク式って何って思ったそこの貴方。
要するに「炭水車がない、石炭と水を機関車本体に積載する形態の機関車」のことを指す。
59609号機。旅を終えて帰宅し本機の経歴を机上調査したのだが、経緯は不明だが新潟県立自然博物館保存の29622号機と本体が入れ替わっているらしい。
↑ このブログに小樽留置時の写真が掲載されてます。
話が逸れたので9600に戻ろう。
自分は国鉄蒸気機関車の中では9600が好き。D51やC57,C62等の大型機関車ばかりスポットライトを浴びるので本機は子供達にも人気のない感じだが、本機には特筆すべき点がある。
・1913年に鉄道院(国鉄前身)が初めて本格的な貨物牽引機として設計製造したテンダー式機関車であること。
・四国を除く全国各地で、大正から戦後まで活躍した長寿な機関車であり、国鉄で最後まで現役で使用された機関車であること。
・牽引力があり手頃で扱いやすいサイズだったので、地方のローカル線や炭鉱線で欠かせない存在だったこと。
要するに、私は9600形が日本の鉄道に最も貢献した機関車であると思っている。
大正から昭和初期の大日本帝国の産業、人員輸送に大きく貢献し、戦後の新生日本の復興を支え続けた機関車ではないだろうか。決してスポットライトを浴びなかったが、本機の貢献は凄まじい。主要路線、優等列車から炭鉱鉄道、操車場の貨車入換、地方ローカル線、彼は全国各地どこにでも現れた(四国以外)
鉄道技術が未発達な昭和初期、日本の鉄道事情は蒸気機関車にとって最悪だった。田舎の路盤が弱い線路に重量級の大型蒸気機関車が入線するとレールや枕木を粉砕してしまう。しかし小型の蒸気機関車は牽引力がない。だが田舎から都会へ農作物や石炭の大量輸送しなければならないので大量の貨車を牽引する必要がある上、山間部は勾配が多いのでパワーが必要。
そこで出現したのが9600で、余りにも使い勝手がよかったので代替機が開発されることなく長命となった。曲線でレールに与える横圧の少なさ、レールへの粘着力、機関そのものの出力、あらゆる点で当時としては傑作であり1913年に開発に成功したことは奇跡と言える。室蘭本線で牽引力試験を行った際、3000トンの超重量列車の牽引に成功した事例がある。
赤が逆転機といい、前身後退の切り替えや自動車でいうミッションの役割も果たす。
青が加減弁といい、シリンダーに送られる蒸気の量を調整する。
逆転機手前にブレーキ弁のハンドルが見える。機関士は主にこの3つのレバーを操りながら走行させるが、燃焼中の石炭の火力なども考慮する必要があり、相当な習熟が必要。
9600の隣にはC12 2号機が居た。彼は現存するC12の中でも最若機。記録を調べたところ、1932年に汽車製造大阪工場で完成。国鉄に納入され仙台所属。1939年頃に旭川へ転属したらしく、その後は北海道を駆け抜け続け、1969年に札幌・苗穂工場で除籍廃車。札幌市円山動物園に保存された後に当地で余生を送っている。
機関士の座席へ座ってみた。小さな窓から、煤煙で顔を黒くしつつ、極寒の地で美しい冬景色を眺めながら運転していたのだろう。
この窓から、大阪の大都市が見えた時代もあった。北海道の雪に埋もれたホームに立ち並ぶ出征する若い兵士と見送る国防婦人会の母親達の姿を見つめた時代もあっただろうし、ラジオで玉音放送を聞いた後に、戦争に敗けた現実に呆然としながら石炭を火室に放り投げ、乗務についた機関士もいたかもしれない。この窓から闇市へ買い出しに行く庶民の姿を見ただろう。北海道の炭鉱の繁栄の中で石炭貨車を牽引した時代もあれば、オイルショックで炭鉱が閉山し、炭鉱で生活できなくなり成功を夢見て東京や大阪といった大都会へ引っ越す坑夫と妻、子供達を客車に乗せた時代もあっただろう。この窓は平成生まれの自分が感じる以上に、多くの時代を見てきたのだと思う。鉄道はいつも、庶民の何気ない日常と共にある。
並んで保存されているED76。500番台は北海道の電化開業用に1968年に製造された。現在は500番台は全廃され北海道内から姿を消しているが、現在もJR貨物が九州で別番台の本機を若干数運用している。
DD16はローカル線で使用された。ディーゼル機関車はよく見るのだが、DD16は65輌しか製造されていない上、保存機は6輌(2輌は非公開)しかなく、見たのは初めて。ボンネットの上に手すりがあるのも個性的でかっこいい。しかし手すりの真後ろに排煙口があるので、臭そうだし服も汚れそうだし、設計としてはどうなんだろう。。
私は何より、これまた初対面であるDD14に恋をした。なんかもう全部が好き。
ラッセル車牽引用のディーゼル機関車で、前方に除雪のロータリーが連結されている。なにより機関車本体がとてもよき。。。
でもまあ、ラッセル車といったら彼だよね。キ274。本機は石北本線で主に活躍していたらしい。ということは大雪の日に網走や北見の辺りをウロチョロしていたのだろう。1945年頃に製造された木製ラッセル車(番号不明)を昭和30年代初期に鋼体改造したらしい。具知安や遠軽に所属した後に1987年に旭川で廃車。
キ700(キ756)。「なんだこれ?めっちゃかっけええ」と思い調べたのだが、やはりなかなかの名機だった。
先ほどのキ274と違い、側面に見える鉄板が横に大きく広がり除雪するタイプで、こういった除雪車をジョルダン式というらしい。アメリカのジョルダン社から大正15年に2輌輸入されて、それをモデルに国産化されたことからジョルダン式と呼ばれる。経歴はかなりややこしい。恐らく戦前に製造されたキ700なのだが昭和50年代後半に近代化改造され、その時にキ756に改番された。元々は24輌が製造され、近代化改造を受けたのはキ750-キ757の8輌で、本機は近代化改造車ということになる。翼を油圧式にするなどの工事をしたらしいが、油圧にする前は手動だったというのか?アナログすぎるだろう...
この貨車には白帯が入っているが、これは「救援車」を意味している。要するに事故発生時に救援の資材を積んで現場へ急行する為に予備として主要駅に常備されていた貨車で、「東札幌駅常備」と書かれている。
事故時の救援といえば恐らく彼が最も有名だろう。実車を見るのも初めて。65トンまで扱える回転式のクレーン車が搭載され、前方に控車と呼ばれるクレーンを収納する為の付随貨車が併結される。
1956年から21輌が製造され、2001年に引退。事故に備えて全国各地の主要駅や貨物駅に常備された。扱いとしては貨車に分類され、黄帯が描かれていたり黄色の塗装がされた貨車は最高速度制限65km/hを意味している。控車の白帯は前述のように救援車の意味。先ほど紹介したキ756にも黄帯が描かれている。
収蔵品の展示館は有料だが貴重な展示を見れる。好きな人は好きだと思う。
気象の異常時には専用の標識を掲げて列車に知らせた。そんな時代もあった。
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博物館を楽しんだ後は食堂で昼食。
保存されている食堂車で食べれるのだが、なぜか食堂車の写真を撮っていない。
値段は良心的だったのだが、(どうせ量が少ないんだろうな)と思い大盛にしたら大変なことになった。
味噌汁の碗と比べて欲しい。多分伝わらない。お米の量がやばい。恐らく1合超える。やばい。運ばれてきた時に目が点になったもんね。さすが北海道。食文化が都会と違いますわ。食が豊かな地域って本当の幸せがあると思う。バカ高い金でクソみたいな牛丼をありがたがっている首都圏の人間に言いたい。三笠村のカツ丼を食えと!とっても美味しかったです。この記事を執筆している今日、原材料高騰の影響で北海道内の松屋では味噌汁の無料提供が一時終了するそうです!全部ロシアが悪い。
余談ですが、最初に紹介した蒸気機関車は運転体験ができるらしい。午前中に講習を受けて午後に運転という形で、一日がかりになるし要予約ということで今回は見送った。札幌からも車で行ける距離なので、いつか北海道へ行く時に蒸気機関車の運転をやってみようと思います。全国的に、動態保存されている蒸気機関車を実際に運転させてくれる施設は三笠が唯一なのではないかと思う。
次回の記事では、私が20歳の頃から夢見ていた憧れの蒸気機関車を訪ねます。
日本を駆け抜けた蒸気機関車の中で最も美しいと思っている。