北海道旅DAY⑤ 〜「幸福になれると思うな。」〜
大晦日の朝。私は帯広駅前にいた。
今日の旅は少し違う。鉄道ではなく、車を借りたのだ。
帯広から30分ほど車を走らせて、目的地に着いた。
恐らくここは、日本で1番有名な廃駅だろう。
古いキハが2輌と事業用のラッセル車が保存されていた。
「幸福になれると思うな」という言葉が俺の座右の銘なのだが、有名な廃駅となれば訪れるしかない。
駅舎内は開放されていたが、内側は人間の汚い欲望に汚染されていて、非常に不愉快であった。旅で訪れた場所に、訪れたこと示す痕跡を残さずにいられない人種は一種の精神病ではないか。自己愛主義の権化だ。古い木造のお寺や神社に、観光客が彫った名前や年月が残されているが、あれは彫った人間の劣等な生き方、恥の痕跡を後世に残す愚行であり「異常」としか言いようがない。
もしかしたら昭和の時代、そうした行為はありきたりで一般な行為だったのかも知れない。しかし、マトモな神経の人間だったら歴史的な建造物に傷をつけるなどということは決してできないだろう。張り物をしたり小銭を投げることすら躊躇する。平成で生まれ育った私達が恋焦がれる「昭和」という時代は、空想上のファンタジーなのかも知れない。実際は恋焦がれる空想よりも下品で、異常で、不潔な時代だったのだろう。
開放されていて車内に入れると事前に聞いていたが、入口のドアには「感染対策の為、当面閉鎖」と張り紙が貼られていた。
昨今の観光名所に散見されるのだが、開放することにどれほどの感染リスクがあり、閉鎖することでどれほどの感染対策の効果が認められるのか教えてほしい。
この車輌を閉鎖するなら、初詣の三が日は北海道の社寺を全て閉鎖しろと言いたい。
再び車を走らせて20分ほど、次の目的地。
愛国駅だ。
「愛国」「幸福」という名の開拓団の名前がそのまま部落名となり、駅名となったそうだ。
過酷な環境下に置かれた開拓団が、自分達に自信をつけ団結力を深める為に素敵な名前をつけたのではないだろうか。それが後世に残され、開拓の100年後、私のような子孫が旅で訪れることとなる。私は美しいと思った。
運賃表が掲げられていた。
東京都区内まで8400円。
愛国駅から東京都に鉄道で行く人が居たのかは謎だが、東京駅という行き先がなく、「上野駅」なのが時代を感じさせられる。上野駅が東京の北玄関だった時代なのだ。
駅前には車掌車が放置されていた。昔、待合室として使ったのだろう。
写真の右上にサイン色紙が並んでいるのだが、中には「石原軍団」と書かれたものもあった。サインの扱いが雑すぎではないか?
スマホの地図に「愛国神社」というものがあったので、何となく来てみた。用事はない。
何もないつまらない神社だ、なんて思ったら、鳥居の左側に古そうな石碑がある。神社の造営記念碑だ。裏側には「昭和12年」と彫られていた。神社に来る楽しみの一つは戦前の石碑が見れること。戦前の石碑の細かな装飾は、天皇の皇威や帝国の威容に溢れていて美しい。
昼前には帯広駅に戻り、列車に乗車した。
根室本線で釧路に向かう。
帯広という内陸部から海沿いの街、釧路に抜けていくので、車窓も内陸の景色が少しずつ海辺の景色へと移り変わっていき、良き鉄道旅となった。
釧路の少し手前で、行き違いの為に尺別信号場というところに停車したのだが、ここがとても風情のある廃駅だった。2019年までは尺別駅として現役だったらしい。
どう思うだろうか。
この旅を通じて多くの駅と通り過ぎてきたが、この旧尺別駅舎ほど印象に残った駅はない。
後ろはすぐ海。
調べてみると、戦前から戦後にかけては炭鉱への分岐線があったり、それなりの集落だったようだが、今や数軒の廃屋しか見えない。車もまったく通らなかった。
近くには10年前に公開された「ハナミズキ」のロケセットが残されているそうだ(興味なし)。
尺別駅のように、100年前に多くの犠牲者を出しながら開拓された北海道の大多数の集落の多くは、積雪や台風という大自然の力によって土に還ろうとしている。いや、その多くが既に土に還ってしまった。それでいいのだ。「永遠の命」なんてものを大自然は許容しない。生まれ、死に、再び生まれ、繁栄と没落は輪廻してゆくのだ。
釧路駅。長いホームが数本あり、今も運用されている。
かつては蒸気機関車が牽引する長編成の優等列車がひっきりなしに入線し、側線は貨車で溢れ、入れ替えの機関車がひっきり無しに動いていたのだろう。駅前に佇む一軸の動輪が、かつての釧路の栄華を平成生まれの私に無言で語りかけていた。
昨日の帯広の旅がハードだったし、大晦日ということもあって、夕方4時すぎには投宿してしまった。
どこかで美味しい夕飯を食べたかったが、大晦日と元日に開いてる店なんてない。
開いてて良かった俺達のLAWSON。
やはり俺は、薄汚い東京の人間だ。