The Last Detail

旅と治療の記録。

最後の入院②年始〜

2023年元日

 

おせち祭り開催!

 

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お昼ご飯↑


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夜ご飯↑

 

1月4日

本人が何か察したのか類上皮肉腫と診断されて以来3年以上ぶりに家族ラインを作り、病状を事細かに送り始めました。

かなり細かく詳細を送ってきたので悪い予感しかしませんでした。

 

ステロイドの副作用がかなり重いこと、

腹痛は治らない…

この日を境に何か変わっていく気がしていました。それはあっという間に進んでいきました。

 

1月6日

後腹膜に新たな腫瘍ができており、そこから

出血しているとのこでした。

当面は止血剤を使用してステロイドは副作用が

重いから中止になりました。

抗がん剤が使えなければ緩和ケアを探したり生活保護も必要と聞き辛かった。

今の状態で抗がん剤が使えないことなんて本人が1番理解していただろうし口に出していなかったが治験も1月からだったし言葉が見つからなかった。

 

兄の携帯で撮ってある病院食はこの日が最後でした。 

 

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1月8日

母が親とは思えないとんでもないセリフをLINEに送りそれが兄と母の最後のLINEになりました。

そしてこの後から家族LINEに兄から通知がくることはなくなりました。

 

アルコール依存の親に何を話しても無駄しかないから話し合うことはないけど私はこのLINEのやり取りは一生許せないと思う。(私が許す許さないなんて親にとってはどうでもいいことなんだけどね)

 

 

1月9日

私の携帯に有明癌研究センターから着信。

嫌な予感が当たりまくっていた上に追い討ちをかけられた電話でした。

「1.2日前から食事も食べなくなってしまった。輸血をしないと命が危ないです。1週間くらいかもしれません」

水曜あたりに一度病院来てくださいとのことで

その日は終わりました。

食事を摂らなくなったら危険というのは有名だと思いますが本当にそういうことなんだと思いました。

 

1月10日

 

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食事もない水だけしか置いていないテーブル。

 

この日16時前後にまた病院から連絡があり

血液検査の結果が悪い、土日までもつかわからないといわれて急いで病院へ向かう。

 

主治医が差し入れは何がいいか、

兄に食べたいものはあるかを聞いていて

お寿司とビールだったらしいがビールは却下されてしまった。

 

 

旦那が銚子丸で急いでお寿司を買ってきてくれたのでそのまま有明へ。

 

先生から容態を聞き、腫瘍マーカーが爆増しているとのことでもう打つ手がないと数値を聞かされお腹の内出血が止まらないCTを見せられ、心底ガンは怖いと思ったしついにきたかと思ってしまいました。

 

ステージ4と診断されてからいつかこの日はくるものだと兄も私も思っていました。

 

だけどいくつもの大手術を乗り越えて、国家資格を取り旅行に行く兄を見ていると遠い未来だと思っていました。

いつだったか「もうすぐ治療開始して4年になる、1番怖いのは合併症なんだよ。まあ色々出てくるよねここまできたら」と言っていたのを思い出しました。

 

お腹の中で異常なスピードで癌は増えている。

お腹の中で出血もしていて輸血しても貧血が治らない。

ステロイドをやったから免疫が下がってこうなったのか、クリスマス前から痩せていてその頃の腹痛からもう病魔は襲ってきていたのか専門家ではないしわからないけど悔しかった。

 

この日兄にもはっきりと助けられない、申し訳ないと主治医が伝えていました。

 

病室でやっと会えた時、兄は「来てくれて有難う」と嬉しそうに言ってくれました。

 

お寿司も全部は食べれなかったけれど3貫食べてくれました。

 

「大好きなものなら食べれると思ったのにごめんね」と言われたので「私がちゃんと全部食べるから大丈夫だよ明日は何が食べたいのー?」なんて会話をしていました。

 

お寿司を出した時「写真を撮ってほしい、遺影にしたいから」と言われて主治医や私よりやはり本人が1番早く異変に気づいていたんだなと改めて考えました。

 

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1枚目は笑っていなかったので、笑えと伝えて2枚目。(結局これは遺影にならなかった)

 

今までも何度かコロナでもお見舞いに病室に入れる時は入ってきたけどこんなに弱っている兄を見たのは初めてでした。

 

この日兄と私と旦那と子どもの4人でたくさん話して帰宅しました。

 

次の日からは泊まりこみで母と叔母と順番で病室に行きました。

主治医の見解通り、半日ごとに容態が変わっていくように見えました。

1月10日のこの面会が兄や私にとって幸せな家族の時間だったと思います。

 

この日以降はどんどん呼吸も浅くなり、夜中に変なことを言ったり治療をやめたいと言ったり…しんどいつらいなんて言葉じゃ言い表せない苦痛の時間でした。

 

1月12日の夜、もう起きないかもしれないけど鎮静剤を打つかと看護師とのやりとりで呼吸も苦しいはずなのにしっかりと本人が話を聞き希望したので鎮静剤を使用することになりました。

 

朝になってようやく効いてきたのか、静かに眠っていました。

 

そしてお昼前に眠るように息を引き取りました。

 

3年7ヶ月、兄はとても頑張りました。

病気になる前から家族に振り回され、しなくてもいい苦労を兄妹でしてきました。

類上皮肉腫と宣告されてからも兄は向上心があり最後まで生きることを諦めませんでした。

 

年末の青森に行けなくても夏に北海道行ければそれでいーやなんて話していたのにそれも叶いませんでした。

コツコツと勉強する努力を忘れず、病気のこともお医者さんのように流暢に説明できるくらいの知識や言い回しを知っていました。

 

癌になってからも教習所の教員として仕事にも熱心でした。癌になって休みがちな兄をよく思わない上司もいましたがそれでも兄は働いていました。

 

どんな困難でも自暴自棄にならずに最後まで癌と戦った兄を尊敬しています。

 

火葬したあと兄とはもう会えなくなってしまったけれど体の中の癌細胞も焼かれて無くなったと思うと骨を見たとき癌の野郎ざまあみろと思いました。

30歳という若さで他の人より倍速で走り抜けた人生でした。

 

良いことも悪いこともたくさんありましたが入院中にテレビで武漢で初めてウイルスが発生してコロナが始まりそうな時のこと、白い巨塔の再放送を兄の病室で見たり車椅子重すぎとか言いながら庭を散歩したり、手術後は足の悪い血を抜く管を足に入れてそれが抜けて大惨事が起きたり、その後歩行器で歩くの応援したり、たくさん思い出があります。

 

兄の闘病生活を支えてくれた友人達や病院の人たち、有難うございました。

 

類上皮肉腫や希少癌に効く抗がん剤が近い未来に出来上がりますように。

 

天国へ行ってもこちらは心配せずに新しい命となって生まれ変わって下さい。今度は健康で長生きで平和な人生を歩んでね。

 

最後の入院①年末〜

2023年1月13日午後0時
30歳の若さで兄は永眠致しました。

 

兄に変わり心苦しいですが妹の私がこちらのブログを書いています。

発病してから癌の治療を記録に残そうと兄はブログに書き記していて、更新したら「ブログ更新したから見てみて」とかまちょなLINEがきてました。

大事に更新していたブログでしたので、

ならば終わりも書かないとと思い今に至ります。

 

 

12月22日

兄と私と旦那と姪っ子とみんなで
こってりしたもつ鍋を食べていました。

数ヶ月ぶりに会った兄の姿はだいぶ痩せていて
「6.7キロ体重が落ちた」

「炭水化物は癌によくないから食べるのを控えてる。お米を食べるのが怖いんだよね〜」

と話していました。

私と旦那は口に出さなかったものの
痩せた姿に「????!!!!」となりました。

病院帰りで疲れてるはずなのに私が甘党ということもあり有明ガーデンでケーキのお土産を
くれました。わーい

皮膚移植の大手術を終えたこともあり
色々な話がたまっていてよく喋っていました。
ただもつ鍋は全然進んでいませんでした。
だんだんお腹を抑えるようになり、
腹痛が強くなっていたようでした。

帰路に着く頃はかなりお腹の痛みがあったようでとてもつらそうでした。
 
帰宅後、腹痛に耐えきれず有明癌センターに連絡。すぐ来るように言われたのに救急車は呼ぶと迷惑だからとなぜか激痛の中電車で有明へ笑

とことん人に頼れない性格が出ている…

深夜0時から検査を開始し午前2時に検査終了。 

 

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深夜0前の有明癌研究センターの一階写真。

昼間はわんさか人がいるけど夜は静かだ。 

激痛の腹痛の中撮る余裕あったんかい!笑

 

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こちらは守衛室。

ここも到着時に撮ったようだ、、

 

兄も私も何度この守衛室の前を通ったことだろう。最期の1週間は守衛室の人にお疲れ様ですって言ってたし顔パスだった笑

 

 

兄はその日の検査では腹痛の原因は不明で入院させられないと言われてホテルに宿泊。

この日兄の体調不良が心配で今回はやばいのも!?と緊張し私も午前4時頃思いっきり嘔吐するという悲劇。笑
めでたく便座カバーは捨てました笑

 


12月23日
主治医と話しその日から入院することに。
じゃあ朝方なんで帰宅させたんだよ!夜勤の人まったく何考えてるの〜!!と思いつつ入院することができたと思い一安心しました。
この時点では後腹膜線維症の疑いということでした。


痛みの波がある、痛いとしか言いようがない。
痛み止めも全然効かない、との連絡がきました。

クリスマスに入院したのは初めてかもしれない…

 

 

12月24日

 

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クリスマスプレゼントにスタバギフト(100円笑)

を送ってくれました〜!!

 

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クリスマスイブの日の病室からの景色。

空がとても綺麗。

 

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病院食もクリスマスメニューになってる!

有明のメニューの中でも豪華だと思う。

 

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推しのクリスマスコスを保存していたようだ。

 

12月26日

貧血の数値が良くなく輸血をした

 

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12月27日
退院予定日でしたが貧血が悪化し退院は延期になりました。
盛岡まで各駅停車で行く旅の計画をしていたようだがあまりの腹痛に泣く泣くキャンセルをしたみたいです。

 

この日も大好きな麺のメニュー

 

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12月28日
退院してタクシーで国立癌研究センターへ。

 

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この日が治験のための説明や検査の日でした。

後々主治医から聞いた話では治験の応募の初日に兄を国立癌研究センターへ送ってくれてたみたいです。
ですがその日も腹痛が悪化して検査も受けれず……私が迎えに着いた時にはコロナ用のプレハブに隔離されて待っていて車椅子に乗っていました。

 

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この日は一度帰宅して再度有明へ戻ることに。
この時はギリッギリ歩けてた感じだったけど
かなりキツそうで有明到着してすぐ車椅子へ。

右下腹部が内出血していてパニックだと連絡がきてステロイド治療をやることになったとさらに連絡がきました。

 

12月29日

この日も貧血で輸血をしたみたいです。

4人部屋の窓際に決まったそうで無事ベッド周りも片付いたのかな…。食事制限もあるのでつらそうでした。高級なご飯よりマックやサイゼが食べたいと言っていました。

 

12月31日

この日は朝から年越しそばが楽しみとLINEがきていましたが、まさかの年越しうどんでした笑

 

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4人部屋は貸し切りになり、相変わらず毎年

ゆく年くる年を見てる…昔から変わらない、、

 

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兄の最後のクリスマス、大晦日になってしまいました。でもこの時はまだ連絡が取れていて

食事も食べれてるし会話ができました。

 

 

 

出雲旅その④境港と水木しげるの街

潮風の桟橋

港が好き。

田舎の、少し閑散とした港。

ここは境港。境港駅から歩いて5分ほどだろうか。駅から港が近いというより港の横に駅があるという表現が適している。

ここ境港からは隠岐の島へ向かうフェリーが発着している他、漁港や海上保安庁巡視船の拠点としても使用されているようだった。

丁度、隠岐の島への連絡に使用されるジェット船だろうか、給油を受けていた。奥の方では海上保安庁の巡視船にブザーが鳴り乗船する保安官が一斉に出航準備を始めている。海保の立派な制服を着ながら無表情で、無駄な動きもなく淡々と職務に励む彼等を見ると病弱な自分は色々な嫉妬をしてしまうものの彼等の航海の無事を祈るばかりだ。

ジェット船は給油中。

丁度、出航命令の放送とブザーが流れていた。

ライトの傘?が沢山吊らされていた。イカ釣り漁船だろうか。

港の一角にも水木しげるが..

少年時代を境港で過ごした水木しげる。街のあちこちに鬼太郎のイラストやら像やら飾られていて、もはや街の勇士になっていることが伺える。

港の対岸に見える山々は美保の北浦。ドライブで海沿いを走ると絶景を楽しめるらしいが、鉄道バス徒歩のみに縛る「丁寧な旅」を実践する者には無縁の贅沢というものだ。

いずれにせよ戦前戦時中、漁港街でしかなかった風光明媚なこの場所で育った水木しげるは美味しい魚介を食べながら幸せに育ち、それが過酷なソロモン戦線での従軍を生き残る精神的な糧になったのだろう。

 

以前Kindle水木しげるの従軍手記を読んだ。作品としては鬼太郎が有名だが元々は従軍経験を元に戦記物を多く描かれていたそうで、自身の経験に忠実に描かれたストーリーもあれば、経験を元に作られたフィクション戦記もある。鬼太郎からは想像できない生々しさがあって、軍拡に勤しむ現代の中国人やロシア人に是非読んでもらいたい作品だ。

 

 

水木しげるロード。商店街は閑散としていた。

水木しげる記念館

港から少し歩いて商店街に合流し歩いて数分。目的地の水木しげる記念館に辿り着く。

のんびりと散策したいものだが、この後の松江への移動の為に乗る路線バスの発車まで1時間ほどしかない。手早く見学することにした。

壁に展示されていた作品紹介コーナー。

シリアスな作品も多いのだなぁ

ゲゲゲの豆知識コーナー

鬼太郎成長記録

初期の目玉親父の姿を初めて知った

戦後は世界中を「同じ格好で」旅してたらしい。旅愛用のベストや私物。

パスポート展示しちゃうのは凄いサービス。
本名「武良茂」

愛用の机、私物

「ガロ」にクスッときた人は相当なオタク。
当時の美品なら数万のプレミア価値があるのではなかろうか。

 

博物館や美術館の展示品をパシャパシャ撮ってSNSやブログに沢山載せるのはあまり好きではないので、興味があれば現地へ足を運んでみてください。

水木しげるの著書も読んでみるも結構面白い。妖怪物よりもシリアスな作品の方がお気に入り。

 

 

どうも写真ばかりの記事になってしまった。

水木しげる先生本人も何回も記念館に訪れていたらしく、何ヶ所も直接壁に直筆で鬼太郎のイラストやサインを描かれていたり、常設展の他に特別展があったり、従軍中に使用していた私物やら、作品を描く為に使っていたペン類やら、作品だけでなく水木しげるという作家の生涯の集大成を飾る記念館といった印象だった。

記念館前や商店街は閑散としている印象だったが記念館内部はそれなりに混雑していて、子供より大人が多い印象。水木しげるの戦地でのエピソードは凄い。凄すぎて話にならない。俺には真似できない。戦場に至っても笑うことと食べることしか頭になかったからこそ生還できたのだろう。戦場で片腕を失っても作家の道を諦めずに自分の人生を生き切っていく姿には障害者や病人も共感、尊敬するものが多いと思う。

11時40分。予定通り、米子駅行きの路線バスに乗車した。

 

出雲旅その③ 特急やくもと境線

駅前のビジネスホテル。

なぜか部屋に二段ベッドがある。下段はダブル、上段はシングル。。

山陰の山々に差す朝陽を見つめながら、1日が開始された。

 

山陰に訪れたからには、特急やくもに乗らねば。

今なお現役で走る最後の国鉄形特急である「やくも」。

今乗っておかないと絶対に後悔する。数年後に新型車輌への置き換えが決まっているからだ。

 

朝8時頃に駅の改札に着き、切符を自動改札へ。

切符はあらかじめ前日に用意しておいたのだ。

....あれ?

改札を通れない。

何度やっても改札を通れない。

駅員さんに聞いてみる。

駅員「この切符いつ買われました?」

自分「昨日です。」

駅員「切符の日付が昨日ですよ。当日限り有効なので」

自分「ああああああああああああ!」

朝から改札で叫ぶ俺。

くっそ迷惑としか言いようがない。

駅員さんが処理してくださり、「誤購入12/6正当」と切符に書いて押印してくださり使用することができた。駅員さんに感謝。

写真を見ると12/5に購入されているのがわかると思う。

切符を買うのが久々すぎてこんなことも忘れてしまっていた。小学生の頃の自分にすらバカにされるミス。。

小学生の俺...現代は腕時計で電車に乗れるようになったんだよ...。腕時計で天気も地図も電話もクレジット決済も飛行機にも乗れるんだよ...。

 

そして朝8時半。無事、出雲市駅に入線したやくもに乗車。

米子駅へ向かう。

振子式特急である381系はカーブを高速で走行する能力は高いが、代償として直線で揺れる。とにかく揺れる。車酔いをしやすい特急といえる。

出雲市から岡山まで伯備線を経由して3,4時間で結んでいるやくもだが、全区間乗ったら酔ってしまうだろうな。

貫通扉がめちゃんこカッコいい

この角度がめちゃんこ好き

「ゆったり」とは..?

昭和の古き良きL特急マークが残る

座席の雰囲気、懐かしいなぁ。

子供の頃の旅行はほぼ車移動だったんだけど、母と妹と3人で電車で千葉の館山に行ったことがあった。

その頃の房総特急国鉄形が現役で、当時もこんな車内、座席だったなぁ。

ホテルがパンフレットと程遠い詐欺のようなボロさで妹と母がブチギレている中、鉄道旅に俺だけがハシャイでたのを覚えている。

出雲市駅を発つ

サンライズから見れなかった宍道湖

やくもは国鉄L特急時代にタイムスリップさせてくれた

米子駅からは境線へ

鬼太郎仕様のキハ40

あらお久しぶり。昨年末の北海道旅以来のキハ40ですね。

境線の終点境港駅水木しげるの故郷であり、水木しげる記念館がある。

境線のキハは特別仕様となっていて、沿線の駅も本名とは別に愛称として妖怪名が付けられている。逆にわかりづらいと思うのだが。。

同じキハ40でもJR西は寒冷仕様の北海道とは違い後付けでエアコン設備が導入されていたり、異なる点が多々ある。ただ、座席が鬼太郎仕様なので、何だかもう別物といった感じ。。

後付け感満載の空調

キハ40独特の爆音のエンジン音を唸らせつつ列車は1時間弱の旅を始める。

沿線は何か特別なものがある訳でもなく途中に米子空港駅があるくらいだが、普通の地方都市のど真ん中を鬼太郎仕様のキハ40が鈍行でのんびり走る風景はこれはこれで山陰の旅情なのだろう。

途中駅で国鉄色のキハ40とすれ違った。

ぼく、あっちに乗りたかったです。。

やがて境港駅に到着。目玉親父ともお別れ。

駅員さんに切符の事情を話し、「何かあったら境港駅の駅員に出雲市駅に電話するよう言われました」と伝え、改札を抜けた。

 

駅を出た俺は、さっそく境港へ向かうことに。

小さな旅が始まった。

出雲旅その② 出雲大社と島根ワイナリー

寝台特急サンライズ出雲と別れ、一畑電車へ乗り換える。

電鉄出雲市駅から30分ほどで出雲大社駅へ向かう。

小さな待合室はサンライズから流れ込んだ乗客で溢れんばかり。

一畑電車に自動改札なんてものはない。検札で改札を抜ける為に切符を買う必要がある。券売機はSuicaが使えた。ちゃんと時代に追いつこうとしている。

検札を通り抜けて2階のホームへ上がると2両編成、オレンジ色の小さなディーゼル車がいた。

乗車して席に座る。4人ボックス席は避けたい。2人席。なるほどね。壁があるからプライバシーに守られて旅を楽しめる訳か。カップルには嬉しいだろうな〜。

一畑電車松江線で川跡駅で乗り換えて一畑電車大社線出雲大社へ向かう。

川跡駅では古いディーゼル車から新型に乗り換え(写真右から左)たが、自分は古いディーゼル車の方が気に入っていた。

 

「割と混んでるな〜」なんて思いながら出雲大社駅に到着。

するとあら。隣のホームに有名なデハニ50が保存展示されていた。レトロな車体。ええなぁ。

タイフォンのラッパがレトロで可愛い。

1928年、日本車輌名古屋で竣工。

対外用小手荷物付付随電車という名目で一畑電車から注文を受けて製造された。

ドアは手動。「日本における、手動ドアを装備した最後の旅客営業用電車」であり2009年に引退した。

写真のデハニ52と53が保存されていて、デハニ53は現在も体験運転などのイベントで使用されているそうだ。めっちゃ楽しそう。

www.ichibata.co.jp

 

レトロな改札を抜けて駅舎に入る。

観光用のパンフレットを漁り、駅舎を出たら大きな鳥居に向かって一本道を歩くだけ。

すぐ側のスタバでフラペチーノ買って飲みながら散策しようかと思ったが、神様の前で失礼かと思いやめた。境内にゴミ箱もないだろうし。

 

鳥居で一礼し境内へ。

それなりに観光客はいる。

本殿へ向けて坂を下り、本殿へ向けて上り、歩き続ける。手術後の脚には辛い。

 

拝殿へ到着する。

出雲大社は二礼四拍一礼が作法らしい。

広い境内。

裏へ向かうと本殿につながる八足門が。拝殿よりもここがメインなのかもしれない。賽銭箱の横には皇室の下賜を伝える板が掲示されていた。出雲大社伊勢神宮は皇室の血統の証明であり天皇制の根拠となる社なので皇室との繋がりが深いのだろう。

八足門の裏に本殿があるのだが、奈良平安時代から多くの変遷を経て本殿は建て替えられてきたらしい。

奈良平安時代の本殿は高さ50mほどあり、長大や階段で参拝していたとか。「根拠のない神話」とバカにされてきたが近年、本殿近くの地中から当時の本殿の基礎が発掘されてしまい、この説の信憑性を高める結果となった。本殿そのものは非公開。

 

拝殿の裏が御朱印の記帳所だったので、初めて御朱印帳を買って御朱印も記帳して頂いた。出雲大社オリジナルの御朱印帳。これは良い記念になる。神社を訪れる度に御朱印帳も持っていくようにしよう。

 

少し歩いて神楽殿に到着。

楽殿は本来、出雲大社宮司である千家國造家の大広間として使われており、昭和56年に建て替えられ現在は結婚式などでも使われているらしい。こんな所で披露宴やったら莫大な金がかかるんだろうな。格式も最高クラスだし皇室レベルの結婚式じゃないと使用できないだろう。

出雲大社で有名なのは何と言ってもしめ縄だろう。

楽殿のしめ縄は日本最大級。5.2トン、13.6メートルに及ぶ。とにかくデカい。デカい。それしか感想が出てこない。デカい。

ただ、思ったより見るところがない出雲大社

大社から歩いて10分ほどの島根県古代出雲歴史博物館で国宝などを見学。

スタッフがやけに丁寧で、入館して展示館に入ると1人付き添いでお姉さんがついてきてくれて、最初、簡単な見学の概要を説明してくださったり、鎌倉時代に大社を支えていたとされる木柱の展示解説をしてくださった。やけに親切。神道への信者を増やしたいのだろうか。でも県立博物館だしな。

常設、特別、映像館のような形で大きく3箇所に分かれていたと思う。

出土品の見学は楽しかった。

当時の太刀やら豪族が着飾った宝飾品の品々、後は大量に出土したらしい神事に使用したとされる銅鐘とか。

駅に戻ってきた。

時間が余ったので、島根ワイナリーを訪れることに。

隣の駅なのですぐに着いた。

やることは試飲と工場見学。当然だ。

とは言ってもこの日は瓶詰め作業をしていなかったので工場は稼働していなかったが、ワインの貯蔵タンクや、工場そのものは見学することができた。

ワインの試飲は少し混んでいたが、普段ほとんど飲まない分、色々と試飲していたらあっという間にヘロヘロになってしまった。

1人なのでホテルで飲もうと小瓶のワインと牡蠣缶、チーズを購入。

島根ワイナリーで売られているワインはそこまで高くはないし、甘くて美味しい。島根ワインってこんなに美味しかったんだ〜と思った。関東で買うと少し高くなるんだろうな。

ワイナリーを見学し終えて米子駅へ戻ることに。

一度ホテルへチェックインして一休みし、せっかくなので山陰本線に乗ってぶらり旅へ。東へ向かうと松江や米子など、主要観光都市へ向かう。西行きの普通列車に乗った。

サンライズから一畑電車に乗り換えた時は気づかなかったが出雲市駅舎って出雲大社に似せてるんだね。

乗車すると、思いの外多くの学生が乗っていた。というか、学生がほとんどだ。2両編成の列車が中高生に占拠されている。

出雲市駅から離れるにつれて学生の数は減っていき、車窓も日本海の景色を描き始める。

このまま乗車し続けても意味がない。

どこか、海沿いの、何もない、古い駅舎のホームに下車しよう。そう決めた。

 

波根駅

駅名のセンスもいい。ここで降りてみよう。

 

途中下車のない人生なんて...

 

がむしゃらに降りずに時刻表を見て下車したので、30分ほどで折り返しの列車が来る。

列車の接近を告げるアナウンスと共にホームへ出る。寒い。駅の前に並ぶ民家の後ろは日本海だ。潮風が吹き付ける。

ホームに立つと待合室で隣に座っていた旅人に「反対側のホームだよ〜」なんて言われて御礼を言う。

やがて列車が入線したものの、ドアが開かない。

あれ?ワンマン運転は前降り後ろ乗りだよな?なんて思っていたら、ドアの横にシールが貼られており「先頭車の後方ドアが開く」と書かれていた。

ダッシュでドアまで走り乗車。

ワンマンって慣れてないとわかりづらい。

整理券取り忘れたら終わりだしな。

出雲市駅前に到着したのは陽が落ちた後。

ホームに降りると隣に変わった車輌が。

なんだあれ?

小走りで隣のホームへ上がり写真を撮る。

115系G編成というらしい。

出雲市側(2枚目)はノッペリとした顔をしているが、中間車輌を無理矢理先頭車に改造した結果らしい。

なんだかヘンテコな改造だ。誰か止めなかったのか??

駅近くの回転寿司で夕飯を済ませてホテルへ。

一階はアルコールを含めたドリンクバーがあり、夜8時頃まで利用できるのでそこで翌日の旅程を立てた。

 

島根ワイナリー土産で晩酌。

牡蠣缶はめっちゃ美味しかった。

長い1日が終結した。

 

出雲旅その① 寝台特急サンライズ出雲

夕陽の下、小学生の少年が東京駅のホームに立っている。

放課後、友達と常磐線に乗りデジカメを持って東京駅のホームに向かう。すると夢のような列車が次々と入線してくる。それを待ち構えていた。

堂々とした重厚な機関車は轟音を唸らせながら金帯、銀帯の青い客車を牽引していた。列車はゆっくりとホームに入線する。

夜の東京駅や上野駅の特急ホームは今と全く違う景色があった。

 

東京駅には寝台特急富士、はやぶさ、あさかぜ、急行銀河、サンライズ湘南ライナーが入れ替わり入線し、上野駅の地上ホームには寝台特急カシオペア北斗星、あけぼの、急行能登が入線していた。

私が小学生の頃は夜行列車の多くは、数を減らしながらも現役だった。

客車編成の寝台特急にはカニ24という形式の電源車が連結されていた。静寂な佇まいの寝台客車とは違い、電源車の前を歩くと排熱による熱気を感じる。そしてゴォーという迫力のボイラー音。それが好きだった。排煙で汚れた車体、窓のない車体、「荷物」とかかれた、発電装置の横の積荷スペース。一両だけ紛れ込んだ異物が好きだった。

 

そして大人になった今、時刻表から寝台特急は消え去ってしまっていた。

自分が高校生の頃にほとんどの寝台列車は廃止となった。

輸送ビジネスとして、寝台特急は格安の夜行バスや航空機に勝てなかったのだ。

 

しかしながら、未だに生き残っているシブとい奴が1人だけいる。転移しても再発してもなかなか死なない俺みたいだ。気に入った。時は11月下旬。JRの予約サイトを覗くとB寝台に空きが。決めた。12月の空いてる連休でヤツに乗って旅に出よう。

 

 

反対側のホームに上野東京ラインの通勤客が居並ぶ中、堂々と入線してきた。

寝台特急サンライズ出雲•瀬戸。

サンライズは東京駅発着の寝台特急の生き残りだ。

同じ車体だが二つの編成、二つの特急列車が併結されている。夜9時50分に東京駅を発ち、途中の岡山駅で切り離してサンライズ瀬戸は翌朝7時半頃に高松駅到着、サンライズ出雲は翌朝10時頃に出雲市駅に到着する。

後ろに立っていた上野東京ラインに乗る女性組が「なにこれ」「これめっちゃ高いらしいよ」「ベッドがあるんだって〜」なんて話をしているのを横目に、列車の端から端まで観察しようと歩き回る。鉄道ファンの儀式のようなものだろう。

 

13号車B寝台2階。

それが私に与えられた旅の居場所だった。

「あっ、ここだ」

13号車のドアの前で立ち止まる。

いよいよだ。

小学生のあの頃、お小遣いが月1,500円だった頃、Suicaで改札を通り抜けるだけで喜んでたあの頃の自分が、指を咥えてホームから見ることしかできなかった列車に乗るのだ。

自分が乗る客室をホームから窓越しに見るだけでワクワクしてしまう。

この列車が今も現役である理由がなんとなくわかる。

安くはないが手頃な値段で、乗客に旅の夢を与えている。

夜中の東京駅、遠くから風変わりな列車がやってくる。やがてホームに入線した時、誰も彼の存在を無視できない。彼の魅力には新幹線すら勝てない。

サンライズは移動手段ではないからだ。

新幹線は高速の移動手段でしかないが、寝台特急サンライズは、彼そのものが「旅」であり「夢」なのだ。

 

 

乗ってしまった。

ようやく乗れたのだ。

「自分の部屋はどこだ?」と階段を登り探し始める。

ドアを開けっぱなしで寝る準備をしている人や、シャワー券を買い急ぐ人(シャワーを浴びるには自販機コーナーでシャワー券を買う必要があり、売り切れるとシャワー室を利用できない)、はしゃいで客車内を散歩してるカップル、色々な人がいる。

A寝台は完全な個室だ。10cmほどB寝台より幅広のベッド簡易な椅子と机があり、サンライズ仕様のアメニティが付属する。シャワー券は買う必要がない。

www.toretabi.jp

 

自分が乗ったB寝台は大きな窓の真横にベッドがあり、小さな荷物置きとハンガーフック。コンセント。それでおしまい。

乗った感想としてはB寝台の方が好きな人もいるかもしれないといった印象で、俺は気に入った。微妙な狭さが古き良き寝台特急の文化を受け継いでいる感じがする。部屋のドアは任意の暗証番号でロックできるし、ハンガーフックもある。荷物を置くスペースもあるし、窓のところにお弁当や飲み物を置ける微妙なスペースもある。何も困らない。

21:25分前後に入線して約30分停車して21:50に発車。

この時間がとてつもなく自分には嬉しい。

昔、太田市場の仲卸市場で夜職をしていた時代、いつも通勤の上野東京ライン常磐線)の車内からサンライズを見ていた。今夜はサンライズの車内から常磐線を見下ろすのだ。

車内に戻ると、隣室のオジちゃん(知らない人)に

「製氷器どこでしたっけ?」と聞かれる。

「いやー、初めてなんでわかんないです」と言うと

サンライズには製氷器があるんだよ。自販機のとこに」

「えっ?そうなんですか?よかったら初めてなんで色々と教えてください!( ^ω^ )」

「よっしゃ!一緒に製氷器行こう!٩( ᐛ )و」

と話していたところに車掌が通りかかる。

車掌「製氷器?そんなものはない」

オジさん「あるだろ!(怒)昔あっただろ!(憤怒)」

車掌「そんなものは昔からない」

オジさん「あったよ!あと米子で降りるから米子で起こして!」

車掌「できません」

オジさん「なんでや!」

俺「撤収! ʅ(◞‿◟)ʃ」

 

洗面所とトイレを探検。

古い国鉄車輌や特急列車に乗ったらトイレの写真を撮るようにしている。

鉄道トイレはその時代ごとに、色々な工夫や構造上の特性があるので色々と観察してしまう。サンライズは車齢20年を重ねている。さらに昔の特急トイレは狭かったし、逆に最近のトイレは障碍者や高齢者の為に手摺りや車椅子で使えるバリアフリートイレが設置されていたりする。時代の価値観が鉄道トイレには細かく反映されるのだ。サンライズには赤ちゃんのオムツ履き替えの台がトイレにある。サンライズがデビューした1998年は通勤列車に優先席が普及し、妊婦や子育て女性への配慮が求められ始めた時代なのだろう。戦前のトイレは線路に垂れ流しだったようだし。別に変態ではないです。お巡りさん私じゃないです。

 

隣のホームの常磐線が発ってまなく、サンライズも出発した。

先ほどの隣室のおじちゃんと揉めていた車掌が検札にきた。

いいなぁ、この車掌に切符を見せる感じ。旅だな〜。

自分の部屋は進行方向(横浜方面)へ向かって左側。新橋や有楽町のビル群、追い越していく新幹線を眺めながら部屋のベッドでボンヤリしていた。

そういやシャワー券なんてのがあったなと思い出し、販売している車輌まで移動したが既に売り切れていた。早すぎる。まあ別に、家を出る前に風呂に入っていたので別に構わないのだが(泣き顔)。。サンライズのシャワーは数分間の時間制限がある上、一度しか使えないので不便らしい。

 

 

黒と金星だった。

 

黒字に金星印のサッポロビールを開けて晩餐を始めたと俺は言っているんだ(怒)(焦)(歓喜

東京駅で売られていた閉店前の割引ご当地弁当を食べる。イベリコ豚弁当。くっそ美味い。入院食も見習って欲しい。イベリコ豚らしさがある甘みとヘルシーな脂っこさ。胃もたれしない脂っこさという表現が伝わるかどうか。これが愛なんだね。神と和解せよ。

お弁当を食べていたらあっという間に横浜駅に停車。

ビールを少しずつ飲んでたら大船で信号停車。

この日は高崎線赤羽駅で起きた遅延が各線に影響していたとで心配したが、すぐに発車してくれた。

 

ぼーっと車窓を眺めていて、ふとGoogleマップで現在位置を見たら江ノ島を越えた辺り。もう藤沢駅か。

消灯する。私の部屋は海側だったので、西湘バイパスと共に相模湾が見え始める。消灯した。

寝ないといけない。早く寝て、朝陽を浴びる山陰の車窓を眺めたい。

けど寝れる訳がない。

いつも車でドライブに訪れる、バイクでツーリングに訪れた海沿いの国道に沿って鉄路が続く。

サンライズの車窓から眺める伊豆の海の夜景。

眠れる訳がなかった。

熱海駅に停車した。既に横になっているが、眠れない。

 

夜汽車の音は、トタタタ、トタタタ、トテタタタ。

0時前には富士駅に到着。

耳栓をして目を閉じる。

 

全っ然眠れない。

耳栓は持ってきた。

だから音よりも揺れが気になる。

揺れる。揺れるベッド。ハンモックとはまた違う異質の揺れ。気づいたら寝落ちしていた。

 

目が覚めると、琵琶湖の辺り。滋賀県豊郷。

偶然のタイミングの目覚め。懐かしい場所だ。ここには歴史的な大ヒットを記録した深夜アニメ「けいおん!」の舞台となり、主人公達が通う学校のモデルとなった旧豊郷小学校がある。

昔、免許を取って1ヶ月後、高校の同級生だった友人達と4人で「東京発、車日帰り京都旅」という某北海道ローカル番組、水曜どうでしょう的な企画をやった時に訪れた思い出の場所。当時の写真である。

あれ?何の話してたっけ?

サンライズだ。サンライズ出雲

 

豊郷の旅を思い出しながら再び眠りに。

目が覚めると「姫路駅」の看板。

あっ、姫路城だ。行きたい。行きたいなぁ〜...(寝落ち)

再び眠り、起きると岡山駅。朝6時半前。

岡山駅サンライズ出雲•瀬戸が切り離される駅。

上述したが前方の編成瀬戸はここから四国へ、後方の出雲は出雲市駅へ別れていく。さよなら瀬戸。

一時間ほど眠り起きると、列車は既に山陰。

山陽本線から伯備線を走行中。高梁川沿いに日本海側に向かって北上を始めていた。

曇り空。朝陽はない。

んー。何もない。

本物の田舎だ。「何もない」ってやつだ。

朝ご飯は東京駅で買ったお稲荷さん。

稲荷寿司専門店豆狸の稲荷。

穴子2個と、わさび、豆狸。

結構ボリュームあって、2個でよかったかも。。

江戸前穴子は美味しい。朝の目覚めにわさびの香りも良き。豆狸はよくわからんけど美味い。けど朝食でこの量の炭水化物はやはり重い。閉店前の割引で安いからといって買いすぎた。お腹いっぱい過ぎて少しずつ食べた。

 

列車は山間の田園風景、川、小さな街並みを眺めながら進んでいく。

何だか1990年代にスリップしたかのような街の景色だ。

不景気で発展することをやめた地方都市に平成初期の残り香が漂う。

 

米子駅に到着する。

日本海側に到着した。まもなくだ。

松江を過ぎたら終点出雲だ。

米子駅はやばい。

何がヤバいって、駅の隣にある米子機関区の光景だ。

東京では既に見られなくなった景色が未だに残っている。

扇形機関庫、転車台、DD51国鉄型の大型ディーゼル機関車)、キハ40の群れ(国鉄ディーゼル車)、マヤ検(国鉄時代の検測車)、381系やくも。。恐ろしい。昭和の国鉄の風景のまま時が止まっている。JR西日本は鉄道ファンには神様のような存在だ。これほど国鉄車が残されているのに撮り鉄が1人もいない。最高だ。

 

そういえばB寝台の室内だが、枕の横にあるスイッチで照明の操作ができる。

昔はラジオも聴けたようだが、既にサービス終了している。コンセントもある。目覚ましアラームの使い方はよくわからなかった。調整できない枕横のエアコンの吹き出し口とは別に、靴置きのフットヒーターの強さは調整できるので、それで部屋の温度を調整できる。

 

サンライズから見える宍道湖の車窓は美しいらしいが、自分の寝台は宍道湖の反対側なのでボンヤリと街並みを眺めていたら松江駅に到着。

そして、、終着を告げる車掌の放送が流れる。

出雲市駅への入線だ。

12時間を寝台列車で過ごす訳だが、半分以上は眠っているので、気づいたら岡山にいて、のんびりしてたら出雲市駅に着いていた感じ。

夜行バスや早起きしてのる飛行機と違い、しっかり眠って体力を回復させると同時に目的地に到着する寝台特急には魅力を感じる。

 

サハネ285-3001。

乗った車輌のナンバーは記録しておく。

この先、鉄道模型で再現できるかもしれないし、再び乗る時に自分が乗った車輌を思い出せるからだ。

ありがとうサンライズ出雲

ホームでのんびりと彼を眺め、写真を撮り、改札口へ向かう。

他の多くの乗客が自動改札を使わずに駅員に使用済みのハンコを押して貰い記念に持ち帰っていたので、自分もそうした。

 

ここからは一畑電車に乗り換えだ。出雲大社へ旅が始まった。

 

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上野駅には、ふるさとのにおいがする。誰か、郷里のひとがいないかと、嘉七には、いつもおそろしかった。わけてもその夜は、お店の手代と女中が藪入りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目がはばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特輯号を買い、嘉七は、ウイスキイの小瓶を買った。新潟行、十時半の汽車に乗りこんだ。

 向い合って席に落ちついてから、ふたりはかすかに笑った。

 

太宰治 / 姥捨

1947年発表

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【SKE48】初めて推しの坂本真凛と話した日

 


今年の初夏に推しに会いに行った。

SKE48坂本真凛ちゃん。

参加したのは幕張メッセで行われたSKE48トーク会。

 

自分の職場は基本的に土日出勤なのでなかなか土日のイベントに行きづらいのだが、休みが取れたので参加券つきのCDを買って幕張へ。

 

 

この日の真凛ちゃんのツイート。

初めてトーク会に初選抜衣装を着てくれた。

 

「握手会」なら皆も聞いたことあるだろう。良い印象を持つ人も悪い印象を持つ人もいると思う。コロナ禍に入ってからは感染対策を理由に握手ができなくなり、代わりに「トーク会」が始まった。ガラスパーテーション越しに2mほどの距離を空けて推しと話せるというトーク会。初めてで色々とよくわからないのでTwitterで知り合ったファンの方に付き添って頂いた。

 

詳しくない人に説明しておくとCDに付属しているトーク会参加券は一度に同時3枚まで出せる。3枚で2,30秒ほど?

短いようで長くも感じる絶妙な時間で、深い話はできない。しかしちょっとした話では物足りなくなる。上手い商売だ。

 

劇場公演やコンサートなどで何度も見たことはあったが、パーテーション越しの近距離で会ってみると印象が全く違う。小顔でとにかく可愛いしスタイルいいし、劇場の座席から観た印象よりも少し小さな背丈に感じた。

一緒に並んでくれた付き添いのファンの方が先に真凛ちゃんに自分の紹介をしてくれて少し緊張が解けたのだが、最初は話す時間配分がわからず一方的に話したり質問してる間に時間切れ(退出)となってしまった。

残念。。。

しかし諦めずに2度目に並んだ時には、その日真凛ちゃんは初選抜の衣装を着ていたので、初選抜や衣装について感想を聞いたり質問をしたり色々と話せた。

劇場の舞台からいつも見上げる形になっていた真凛ちゃんと、同じ場所に立って話せるのは嬉しい時間。

抗がん剤で髪の毛がない時だったので少し戸惑われたかもしれないけれど、小柄な真凛ちゃんは自分を見上げて、少しだけの時間だったが衣装や初選抜に対する思いを話してくれた。

「また劇場に行くね!」と言ってお別れしたが、その後は未だに行けていない。

最後に行ったコンサートは名古屋でやった珠理奈の卒コンで、劇場は重ねた足跡公演を観たのが最後だ。

 

「推しとは会える時に会っておけ。卒業したら会えなくなる」と他のアイドルが言っていたが、その通りである。

 

元々、自分はアイドルという職業が死ぬほど嫌いだった。テレビで観るAKB総選挙は反吐が出るものだったし、ロリコンの集まりで承認欲求を満たしたいだけの女の子を芸能界のオジサンが搾取する。そういった悪いイメージを持っていた。

 

2019年頃、たまたまSKEのラジオ番組を聴き、面白かったのでラジオの動画を見た。

北野瑠華に興味を持ってラジオ動画を観てハマり、そこから杉山愛佳というキャラクターに感銘を受けた。

その後、坂本真凛という子を知る。

小学生の頃からアイドルが好きで、中学入学と共に不登校気味になるも好きだったSKEの劇場に通い、握手会にも参加していたことから一部のファンや正規メンバーにも知られていた存在だったらしい。

劇場の観覧席でアイドルを見つめていた不登校の中学生は今、劇場の舞台に立ち、コンサートホールに立ち、プリマステラというSKE派生ユニットのセンターを務めている。最近は10分尺ながら東海ラジオ冠番組を持つことになった。

 

「十代のメンバーの中からファン投票で6人を選抜し新たなティーンズユニットを作る」といった企画だった。ファンへ投票を促す動画で他のメンバーが応援してくださるファンへの感謝や選抜への想い、そして投票をお願いする中で、真凛は自分に投票してくれとはあまり言わずに「頑張ってるメンバーに投票してください」と言っていた。これが坂本真凛を推す決め手になった。こういった子が夢を掴むべきだ。

 

『未来は少女たちの手の中』 / 坂本真凛(SKE48 28thシングル カップリング収録「ティーンズユニット」メンバー投票企画) - YouTube

 

SKE48 ティーンズユニットお披露目LIVE 未来は少女たちの手の中 「制服を脱ぎたくなって来た」-OFFICIAL LIVE VIDEO- /2021年3月13日 - YouTube

 

それまでも坂本真凛という女の子が好きだったし応援していたが、ここで完全な推しとなった。真凛単推し(※)を決めた。アイドルを嫌っていた男がアイドルオタクになり劇場でサイリウムを振り始めるキッカケだった。

 

他のオタと比べたら自分は仕事や闘病の合間に推すことしかできない。それでも底から這い上がっていった彼女から自分は大きな勇気を得た。

SKEメンバーに平野百菜という子がいる。

毎朝6時頃に早起きしてShowroomというアプリで動画をライブ配信してコメント欄でファンと関わり合い、中学校(現在は高校)に通い、放課後はレッスンや収録、早退したりして名古屋栄の劇場公演に参加しているのだろう。その夜に宿題などを片付けながら再び配信。時折、ファンに宿題や授業の内容を質問したりしていた。それを毎日毎日やっている。彼女なりの悩みもあるだろうがファンの前では絶対に表に出さず、いつも元気な声と満面な笑顔で楽しそうに配信している。推しではないが、配信はよく見ている。あなたが同じ十代だったらこれほどの努力が出来るだろうか。

 

中学生高校生の女の子が死物狂いで頑張っている。

それは癌と戦いながら教習所に転職し、国家資格を取得していくといった俺の努力に繋がっていく。

教習所で教官として働くには幾つかの条件がある。

 

過去の違反歴、逮捕歴と普通自動車免許、普通二輪自動車免許の所持。

試験は公安委員会が実施する。

運転実技、学科実技、論文(教則)、論文(法令)、面接(教育知識)、面接(教則)

これら一つ一つをクリアしていった。試験期間中に入院するトラブルもあったが諦めなかった。

 

最近はSKE48の中で免許を持つ子が増えて、福士奈央ちゃんは卒検を受けるって最近のラジオで言っていたね。

彼女達がラジオや番組の中で楽しそうに車校に通う話をしているのが嬉しい。

 

自分は働ける限り、今の仕事を続けるつもりだ。

 

夢をありがとう。

愛を君に、愛を僕に。

 

 

動画

2021/9/1 on sale SKE48 28th.Single c/wプリマステラ「雨のち奇跡的に晴れ」Music Video(special edit ver.) - YouTube

 

(単推し=1人だけを推すこと。基本的に他のメンバーへの握手会などにも参加しない。

複数推し=複数名を推すこと。浮気性。3人以上推すオタはアイドルからもオタからも信用されない。

箱推し=特定の誰かではなくグループ全体を推すこと。握手会は誰でも並ぶし、メンバー全体の絆や人間関係を楽しんでいる。自分は箱推しから始まった。

異論、諸説あります)